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「幽囚の心得」第6章            「リスタート」による完璧主義の追求(4)

 私が刑務所で配役されたのは、コンビニエンスストアなどで販売される乾き物などの菓子類の袋詰め作業をする工場であった。手許の秤で決められた量の材料を計測し、それを袋に詰めて、シール機を通して封をするという極めて単純な作業であるが、集中力が足りないのか、何故か軽かったり重かったりという軽過量が一定数発生する。生産班の班長である私は軽過量が発生する度に班員の皆に対して、「ここからリスタート。ここからは完璧な人生」と声を掛けた。彼らの脳裏に擦り込むようにこの言葉を繰り返した。

 世人は受刑者、前科者に対して、自らの過ちに頭を垂れ俯いたまま日陰にこっそりと息を潜める態を示し続けることを求める。しかしながら、私はこのような自己否定に止まる様は未だ真の反省とは評し得ないと考えている。このような様は、そもそも本当の意味で“生きている”状態とは言えないのだ。呼吸をし飯を喰らっていても、それは単なる肉の塊でしかない。このような状態にあるべきだとするならば、それはもはやその者に対し自死を迫るに等しいと言わねばならない。世人は本当にそのようなことを求めているのか。多くはそうではなく、単に無思慮なだけではないだろうか。これは世人一般に見られる性質である。

 「非日常」にある受刑者の人生の在り方について「日常」に浸った世人は想像力が働かないのであろうと思う。受刑者に課されている命題は、“自分と向かい合い、自分を生き切る自分になる”ということに尽きる。無論、過去の自らの過ちは、これを生涯抱え続けなければならない。他者を傷付けた過去を放置しこれを覆い隠していても、自身の心の平安は訪れるはずはない。心が平安でなければ、心は自由にならない。心が自由にならねば、自分自身を自在にし自分を生き切ることはできない。

 さて、受刑者は一般の世人に比しより厳しい条件と環境の中で、“自分を生き切る”という困難な事業に臨まねばならない。これまでの人生の中で生きる覚悟が足りぬ故にここに陥った者であればその困難は尚更であろう。しかし、その事業の完遂をもってしか、真に“生きる”ということは叶わないのである。受刑者は、今の自身の境涯を齎している、その多くは自身の問題に起因するものであることを再認識しなければならない。世の中には、やる奴とやらない奴の二種類の人間しかいない。矢沢永吉氏が言っているとおりであると私は思う。

 過去を引き摺り卑屈になるのではなくて、過去を支配しコントロールする。過去に意味付けをするために今を全力で生きる。受刑という過去に何らかの意味を与えるための現在及び未来を選択し創造するのである。これは言うは易し行うは難しである。事に依ると世人が求める自己否定に徹してしまった方が気楽なのかもしれない。それにも耐えられず、堕落した自己肯定に逃避し、刹那主義、享楽主義の下、虚構の人生を送る者が多い実際はさもあらんといったところだ。大方の受刑者、前科者はそちらの範疇に位置すると言えよう。

 しかし、過ちを犯した遠因の一つにはそのような自分から逃避し自分を生き切っていない虚構に心底において満ち足りていないことがあったのではなかったか。また、同じ場所に帰って同じことをして、また同じ焦燥と虚無を味わいたいのか。否、むしろ以前より状況が悪化していることは明白である。世人の示す価値とも言えぬ価値らしき体裁の予定調和の秩序の下に、その最後尾に付いて追従するか、あるいはその列を外れて後ろ指を指されながら生きていくか、そのどちらかが関の山であろう。もはやその選択すべきは、私の言うところの「有意味的な自己肯定」を目指す苦患の道しかないのである。

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