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「幽囚の心得」第11章 「葉隠精神」を錬磨せよ(1)
生きたいと生に固執している者は、どうしても我欲が透けて見え、浅ましい軽輩に映る。ただ肉体の永続を求めるだけの生は禽獣のそれに等しい。“生きる”ということは、ただ呼吸し、飲食し、糞尿を垂れる状態のことをいうのではない。本来の“生きる”という所業は、即ち、魂を磨く作業のことをいうのである。魂が磨かれるためには、生死を超越した価値に身を捧ぐことが必要である。後生大事に身の安全を図り、安逸を貪る徒輩の魂が輝くことは決してない。
執行草舟先生は、生命の本質は生命燃焼にあるとする。
「生命は燃え尽きながら、錆び衰えて死ぬためにある。」とするのだ。
「元々、生命とはボロボロになるために存在している。ボロボロになるほど価値がある。今の社会は正反対で、生命を肉体第一と考え、恰も餌を与えられ守られて生きる家畜と看做す社会となっている。本当に自分の生命を大事にするとは、自分の肉体を徹底して痛めつけて、命を捨てる覚悟で生きるということなのである。」
生命燃焼は当然ながら、その対象を求める。
如何なる価値に身を捧ぐか、生命を捧ぐかを探究するということが正に人生において求められる修養の在り方そのものである。
自らの信じる価値に向かって「ボロボロになっていく」のが生命燃焼を全うした良き人生である。
執行先生は言う。
「人間の生き甲斐というものは、命懸けの生き方、命を捧げる生き方や徐々に錆び衰えていく酸化過程の中に在る。自分を大事にし過ぎれば、全く生き甲斐のない人生になってしまう。」
生き甲斐を見出すことができず、自らの人生に十分な意味付けを為し得ない者は生命を燃焼し切る事ができず、中途半端に燻っているだけの人生を送ろことになる。
生命燃焼の対象を見出すことは、勿論そう容易なことではない。しかし、その対象たる価値を見出し探究していくことが人間にとって必要不可欠な「修養」そのものなのであって、これを回避しながら価値ある人生を送ることなど到底不可能なのである。答えを求め煩悶することは、それ自体、必要な人生の道程である。如何に生くべきか、悶々として眼前の作業に何ら手を付けることができず、一見無為な時間を過ごしているように見えても、そこには大いなる人生における意味を見出すことが出来る。そこには潜在において、エネルギーの無尽蔵な充溢が認められる。それは生命燃焼の最大極点に至るまでの準備行為とも言うべきものだ。何らの疑いも持たず、受動的に与えられた課題を真面目にこなして来た優等生のうちに何ら見るべき人間的魅力を感じ得ないことが間々あるのは、この悶々とした時間を過ごしてきた経験に欠けるからである。
ただ一つ注意すると、その煩悶も本気で魂を削るような思いでしなければならない。それは単なる懶惰や享楽への逃避的衝動によるものであってはならない。いつにおいても、人生の価値の探究という苦行から逃避することは許されない。単なる生物的な生存に安易にしがみつき、自らを許す惰弱は人間としての生を放棄し、禽獣に堕するものと言わねばならぬ所為である。そこにあるのはただの肉の塊にすぎない。生命燃焼というものは、自ら信じる価値の為には生命を捧ぐという、捨てる覚悟を伴わねば達せられるものではない。つまり生きるということは死ぬために行われる所業なのである。死ぬために生きるというのが、本当の意味で「生きる」ということなのだ。