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「幽囚の心得」第21章                                     刑事政策の意義と刑罰の正当化根拠(3)                                   「受刑者の矯正教育の内容には徳の一つである感性を磨くための情操教育を加えるべきである」

 「行刑の社会化」、「施設内処遇の社会化」ということが、社会復帰思想に連関し唱えられている。受刑者の社会復帰という観点からは、施設内環境の閉鎖性を緩和し、出来得る限り社会のそれに近づけることが望ましいとの論である。

 しかしながら、受刑者に対し、これまで彼らが過してきた日常に近い環境条件を与えるならば、彼らは容易にその日常に逃げ込み自分を許すに違いない。自己を強いて内面に向かわせる呻吟を彼らが自発的に求めるということを期待した制度設計をするなど何と人間の真実の有り様から離れた馬鹿げた所為であろうかと思う。実際に私が触れた多くの受刑者の心の向きは、どうにかしてこの施設内収容の退屈な時間において暇潰しをできることはないかという計略を働かすことにあった。他者の趣味をとやかく言うことはないが、四十面したおじさんが少年漫画雑誌を毎週購入している姿を目にすると、とてもそこに修養の精神を見て取ることはできず、これを想念し得るものではない。
 社会にあって人生の意味など考えることもせず、己れの足らぬを自覚もせず、刹那な遊興で気散じすることで自己の心を誤魔化し、空虚を紛らわしてきた懶惰な人間に対しては、言い訳無用の生身の自分という人間しかそこにはいない純化された空間に身を置き修養に努めることこそ受刑者にとって何よりも大事なのであって、それを環境を社会に近づけることが正しいと盲信するならば、あまりに短慮であると言わざるを得ない。
 思想が失われたこの国においては、専ら風潮、流行に依拠した政策決定がなされている。「施設内処遇の社会化」の理論に基づいた各現場の対応の実際もその一つの証左である。「行刑の社会化」などと言っても、それはある種、飴と鞭のうち飴を増やして鞭を減らし、受刑者のストレスを減らすことで、管理する側に極度に反発が向かわぬようにし、その管理を楽なものにしていくことに働いているだけではないか。

 勿論、施設内にあっても受刑者の処遇は、社会において一個の人間として自律して生きることを目指すものである以上、必要な社会の情報を得ることは妨げられてはならないし、善なる人的関係を期待できる他者との外部交通についても大いに認めてしかるべきである。

 極端な表現に聞こえるかもしれぬが、それらは自らが「立派」な人物になる方向に作用するものでなければならない。「立派」な人間になるべく身に付けるべき道徳というものは、人間の高尚なる精神活動の所産と言うべきものである。

 この精神活動には知性と理性の他、「感性」という論理によっては説明し得ないものも当然含まれるのであるから、人間を高尚なるものとしていき徳を身に付けていく為には、物事を知り考えたり判断したり行動したりする能力であるところの理性のみならず、感覚に伴い印象を捕え受け入れる能力であるところの「感性」を磨いていくということも必要となってくる。

 そもそも人間が内的に有する本来的価値のうちには論理では説明し得ぬものがあることは容易に理解し得よう。人間の心が充足し幸福を感じる心性には、その有する「感性」が働くところも大きいと思われる。芸術的な感受性や風雅を解する心性、情操というものもまた徳の内容の一つに数えられる。
 
 “生きている”ということは自分自身が精神的実体、即ち、感じ、想い、考える実体として自分に感じられているということであるから、その精神的感受性を磨くということも生の観念と密接であると言うことができる。音楽や美術の鑑賞は、人の精神的感受性を豊かなものとするに資するものであることは肯定できることあろう。自然の美を愛でる感性のない人間はやはり人格的に足らぬところがあるように思える。

 高尚な精神的感受性は世にある事象の認識の幅を広げその対象を多くする。それ故に、精神的な楽しみというものも増え、心の満足も多く得られることになるわけである。

 そういう意味では、突飛に聞こえるかもしれぬが、受刑者の矯正処遇において、情操教育を施すことをその一内容とすることを一考してもよいのではないかと思う。感性を磨くことを受刑者の徳の育成の端緒、突破口とすることも試みとして面白いのではないか。

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