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「幽囚の心得」第12章                規範の存立根拠                ~合理の裏付けと慣習的価値~(8)

 ルールを遵守することに、他者に見られているか見られていないかは無関係である。見られていないからと姑息な振舞いをするなど、自分の人間としての価値を貶める愚行である。それは全く美しさに欠けることだ。

 また、現に課されている可視化されたルールのみを守り、それ以外は全く思うがままに何らの規制もなく振る舞ってもよいということではない、そのことにも注意を要する。世には不文律の慣習的価値、道義というものがある。誰によるものでもない、正道を歩む、自律の発動が必要である。それが大人の作法というものだ。

 物質的、具象的なものばかりを追い求めるのではなく、精神的で抽象的な概念を重んずる姿勢がないと心は充足しない。形而上学的思索の中を懊悩しながら彷徨し、内面的な自己を涵養することで人間は精神的で人格的な成長を遂げる。
 物質至上主義は専らに利益という結果を求め、結果を得ることのない、その過程の価値は無と評される帰結となりやすい。それ故、その過程や手段を問わず、何をしてでもその結果を得るという品性の認められない思考に陥りやすい。勿論、目標を達成するために常人の想像を超えた努力をするようにと結果を求める心が働けば、それは大変素晴らしいことなのだが、卑俗な凡人は十分な努力もせずに結果を得ようとして逸脱した行動に走ることが間々あるのである。

 ここで提案しよう。考え方を変えることだ。
 自分の行動から将来生じる結果は自分の力によっては完全には支配しコントロールすることはできない。人間が支配しコントロールすることができるのは、自らの行動の選択とその程度においてである。我々が自身の力でできることは、如何なる行動を為すべきか、どの程度の質と量で当該行動を為すべきかということに尽きる。その行動の内容によって結果の生ずる確率を上げることはできるが、完全に100%、結果を得る方策は世に存在しない。  

 それにも拘らず、結果にのみ価値の重点を置く貧しい思考に終始するから、社会逸脱行為を為してでも結果を得ようとする過ちを犯すのである。我々は物事の価値を行動の在り方の指針として置くべきなのだ。行動の美しさに価値を求めるべきなのである。我々は自らの行動については自身で完全に支配しコントロールすることができる。生きる基軸となる思想に適合した行動選択をし、持ち合わせたエネルギー全てを注ぎ込むことで質的にも量的にも納得できる行動を貫徹することができる。これがその者の生き様とも言うべき価値であって、人間の価値はこの生き様によって決せられるのである。
 してみると、我々の人生をコントロールするのは、「思想」に基づき行動を規定する原則であると言うことができる。その意味では、規範とは究極的には他者によって突き付けられるものではなく、自らによって内に規定するものであると言ってよいかもしれぬ。

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