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「幽囚の心得」第24章(終章)                                                     「後世への最大遺物」                                                  「勇ましい高尚なる生涯」を探求せよ

 内村鑑三先生は後世に対して「最大遺物」を遺していきたいと強く望んだ。ここで、「最大遺物」とは「勇ましい高尚なる生涯」をいう。我々はこの「勇ましい高尚なる生涯」を求めて生きることで人生を輝かすことができるのである。

 『後世への最大遺物』(岩波文庫)は明治27年(1894年)夏に箱根で開催されたキリスト教青年会第6回夏期学校で行われた講演の記録である。講演録の性質から、私の要約によってはその話の内容のその大切な機微を伝え切れないこともあろうかと思うので、やや長くなるが以下に同書から引用する。

「われわれの生涯の解釈から申しますると、この生涯はわれわれが未来に往く階段である。ちょうど大学校にはいる前の予備校である。もしわれわれの生涯がわずかこの五十年で消えてしまうものならば実につまらぬものである。私は未来永遠に私を準備するためにこの世の中に来て、私の流すところの涙も、私の心を喜ばしむるところの喜びも、喜怒哀楽のこの変化というものは、私の霊魂をだんだんと作り上げて、ついに私は死なない人間となってこの世を去ってから。モット清い生涯をいつまでも送らんとするは、私の持っている確信でござります。」

「この世の中をズット通り過ぎて安らかに天国に往き、私の予備学校を卒業して天国なる大学校にはいってしまったならば、それでたくさんかと己れの心に問うてみると、そのときに私の心に清い欲が一つ起ってくる。すなわち私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない、との希望が起ってくる。ドウゾ私は死んでからただに天国に往くばかりでなく、私はここに何かを遺して往きたい。それで何もかならずしも後世の人が私を褒めたってくれいというのではない、私の名誉を遺したいというのではない、ただ私がドレほどこの地球を愛し、ドレだけこの世界を愛し、ドレだけ私の同胞を思ったかという記念物をこの世に置いて往きたいのである。すなわち英語でいうMemento(メメント)を残したいのである。」

「しかるに今われわれは世界というこの学校を去りまするときに、われわれは何もここに遺さずに往くのでござりますか。その点からいうとやはり私には千載青史に列するを得んという望みが残っている。私は何かこの地球にMementoを置いて逝きたい、私がこの地球を愛した証拠を置いて逝きたい、私が同胞を愛した記念碑を置いて逝きたい。それゆえにお互いにここに生まれてきた以上は、われわれが喜ばしい国に往くかも知れませぬけれども、しかしわれわれがこの世の中にあるあいだは、少しなりともこの世の中を善くして往きたいです。」

「それでこの次は遺物のことです。何を置いて逝こう、という問題です。何を置いてわれわれがこの愛する地球を去ろうかというのです。」

 その第一に思い浮かぶのは金であるがそれよりもよいものは事業である。

「事業とは、すなわち金を使うことです。金は労力を代表するものでありますから、労力を使ってこれを事業に変じ、事業を遺して逝くことができる。」
「それでもし私に金を溜めることができず、また社会は私の事業を許さなければ、私はまだ一つ遺すものを持っています。何であるかというと、私の思想です。もしこの世の中において私が私の考えを実行することができなければ、私はこれを実行する精神を筆と墨をもって紙の上に遺すことができる。あるいはそうでなくとも、それに似たような事業がございます。すなわち私がこの世の中に生きているあいだに、事業をなすことができなければ、私は青年を薫陶して私の思想を若い人に注いで、そうしてその人をして私の事業をなさしめることができる。」

「思想そのものだけを遺してゆくには文学によるほかない。」
「文学というものはわれわれの心に常に抱いているところの思想を後世に伝える道具に相違ない。」

「われわれがこの世の中で実行することができないからして、種子だけを播いて逝こう、『われは恨みを抱いて、慷慨を抱いて地下に下らんとすれども、汝らわれの後に来る人々よ、折あらばわが思想を実行せよ』と後世へ言い遺すのである。それでその遺物の大いなることは実に著しいものであります。」

「しからば私には何も遺すものはない。事業家にもなれず、金を溜めることもできず、本を書くこともできず、ものを教えることもできない。そうすれば私は無用の人間として、平凡の人間として消えてしまわなければならぬか。陸放翁のいったごとく『我死骨即朽、青史亦無名』と嘆じ、この悲嘆の声を発してわれわれが生涯を終るのではないかと思うて失望の極に陥ることがある。しかれども私はそれよりモット大きい、今度は前の三つと違いまして誰にも遺すことのできる最大遺物があると思う。」

 さて、長い引用を経たが、内村鑑三先生はこの後世へ遺すべき最大遺物とは先述のとおり、「勇ましい高尚なる生涯」であるというのである。そして、それは誰にでも遺すことが可能だと言う。続けてもう少しだけ引用させてもらおう。

「しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわちこの世の中はけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中であらずして、希望の世の中であること信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。」

「ドウゾ後世に人がわれわれについてこの人らは力もなかった、富もなかった、学問もなかった人であったけれども、己れの一生涯をめいめい持っておった主義のために送ってくれたといわれたいではありませんか。」

「邪魔があればあるほどわれわれの事業ができる。勇ましい生涯と事業を後世に遺すことができる。とにかく反対があればあるほど面白い。われわれに友達がない、金がない、学問がないというのが面白い。われわれが神の恩恵を享け、われわれの信仰によってこれらの不足に打ち勝つことができれば、われわれは非常な事業を遺すものである。われわれが熱心をもってこれに勝てば勝つほど、後世への遺物が大きくなる。」

 私は令和6年9月4日、刑期の満了を迎えた。私が収監されてる間、母は金銭的に十分に満たされない生活の中で自らの病について必要な手立てを尽くすことを抑し、結果、失明の危機に陥った。通院していた病院の医療ミスが疑われる状況もあるが、私が傍にいたならば違う対応をし違う結果となっていたことは明らかだと思う。昨日は母の目の4回目の手術であった。硝子体手術である。今、母は私の横のベットでうつ伏せに横になっている。2週間は1日中うつ伏せを保たねばならないという苦行の最中にいる。
 社会復帰後、獄中で刑務作業により製作されたキャピックのノートに書き記した『幽囚の心得』第23章までの原稿をnoteに転記しつつ校正を施した。この最終章は令和7年1月29日に書しているが、施設内にいるときより、私は内村鑑三先生の『後世への最大遺物』を紹介したいと決めていた。その理由について、本書の読者に今更述べる必要もないように思う。

 受刑者に伝えたいことは、何も力がなくともそれが努力の結果であるのであれば、卑下する必要は全くないということだ。私が厭忌するのは自己錬磨に怠惰であるにも拘らず、他者や世の中に対して暴力的に自儘を通し私益を得ようとする徒輩である。努力して届かぬならば、自身、努力が足らぬと自省する姿勢は大事だが、何も人間として低俗なものとはならない。要は内村鑑三先生もおっしゃるとおり、その努力が思想に基づくものであり、且つ、その思想の求める要求に対して行動が一貫性を有しているということなのである。自分の存在と人生を諦念することなく、いつも存在がその思想の道徳的価値において美しいものとしていくことに、公明正大な潔ぎのよい精一杯の努力をすることだ。その果敢な人生を通した試みこそ内村鑑三先生の言うところの「勇ましい高尚なる生涯」をかたちづくるのであって、その者の人生は後世においても賞賛される「最大遺物」となるのである。
 


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