「幽囚の心得」第11章 「葉隠精神」を錬磨せよ(6)
「忠義」の現代的意義をどう捉えるべきか。
主君に対し、忠節を尽くして仕える「忠義」という徳目は、個人の尊厳を最も根本の基本原理とする民主主義国家である現代日本において、なお日本精神を構成する一支柱たり得るのか。
「主君に対する臣従の礼と忠誠の義務は封建道徳を顕著に特色づけている。」
それはそのとおりであろう。
しかし、その一方で、武士道は臣下の者の良心を主君の奴隷として、主君の妄念邪想の為に犠牲にすることを是とするものではないということを看過してはならない。主君の考えが誤っている場合に、家臣の選択すべき道は飽くまでその非なることを主君に対し諫言することにある。
そして、「もしそのことが容れられないときは、サムライは自己の血をもって自分の言説の誠であることを示し、その主君の叡智と良心に対して最後の訴えをする」のであって、「生命はここに主君に仕える手段とさえ考えられ、その至高の姿は名誉あるべきものとされ」ることとなるのである。
思うに、「忠義」を支える根本義は武士道における第一の徳目であるところの「義」であると言わねばならない。
前述したとおり、「義」とは正義の道理であり、武士道を美しき理想たらしめ、健全な精神の下で卑怯を忌む価値観と解され、この「義」に適うところの自らの使命を全うしその価値を貫くことこそ「名誉」を生む。このように「忠義」と「名誉」もまた密接である。侍は主君に対する関係で「名誉」を望むが、その「名誉」は「義」を起点とする。
現代日本における個人主義の思想の下にあっても、正義の道理たる「義」の価値は厳然として存立するものであるはずだが、実際はこの価値から遊離した懶惰な世相に溢れていることに慨嘆せざるを得ない。惰弱な人間の元々の素性からは、世人一般が「義」を為すべく修養に精励するということは、本来的に期待し得ぬことなのかもしれない。そのようにさえ懐疑してしまう世の現況である。
昨今の日本人は人に受けた「恩」というものを容易に忘却するが、そうした所為は自らの人生の一経過一場面を消去してしまうに等しい。私にはそのような人間は自らを愛し切れぬ憐れなる浅薄皮相の輩と映る。自身の生きる環境、国や地域、民族や風土を愛せず、これを捨象しながら自己実現など果たしようはずがない。人と人の関係も然りであって、全て出会った人は自分の人生を構成する登場人物であるのである。その一部を消去することは、自らの存在さえ部分的に忌避し、敢えて忘れ去ろうとするに等しい自己破壊の愚行である。
自分をも全面的に受け止めて、あるがままに愛せない人間が心底より他者に愛情を注ぐことなどできようはずがないし、また、自らの内における充足を感ずることも絶対にできないと断言できる。そうして、中途半端にデラシネ(根無し草)のように浮遊する大衆人が生産されていく。
「忠義」から解放された個人主義が自力では「義」を追えないとすれば、それは単なる利己主義に堕するものと言わねばならない。このような品性の存しない徒輩が彷徨する状態を個人の尊厳原理が思想として希求してきたはずがなく、そのような観点から現代日本にあっても「忠義」という徳目の示す価値が有意味であると改めて見直し、その概念の再定義、再構成がなされてよいと思料する。
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