「幽囚の心得」第18章 幸福論(8) 「幸福になりたい人間は幸福を求めてはならない」
「たけき武士はいづれも涙もろし」と『甲陽軍鑑』にある。
武士が戦の場で己れの命を懸けて戦うことかできるのは、父母や妻子などの家族と家を守る為、そして自己が仕える主君と生まれ育った郷土への愛の為である。功利主義的な考えの下に自らの命を賭すことなどできないだろう。自己を無くして他者の為と思う故にこそ為せる事である。命を懸けて為すということは、本来、このような心性の下に為される所業である。
真に優しき者の精神は強靱である。戦という生死を懸けた極限状態の下あるからこそ人間にとって最も尊い大切な価値、「真理」というものを見出し得るのだろうと思う。
強靱なる精神を持つということは、即ち「立派」であるということだ。「立派」であるということは、「真理」を見出し得る場所に身を置かんとする姿勢である。その場所は得てして生命に対しては危険を伴うものだ。
昔時の日本人は皆、「立派」な人間になることを望んでいたように思う。つまり為すべき事を為すためには死んでもいいという心性を有していたのだ。
しかし、現今はこうしたことはてんで聞かれなくなった。それどころか、志を展べようとする勇者を侮蔑し、その成らぬを願い、邪魔立てしようとする卑劣漢で溢れている。純一な思想の表明に対して、頭からこれを否定し、暴力的にその者を自己より下位に置こうと策動する。
昨今の日本人は、ただ呼吸をしている状態を表す「生命」というものを殊更に御身大事にし、死んでもよいというくらいの心気で事の成就に向かう人間がいなくなった。
実現したい事があるならそれが叶うまで何度も何度もその壁を叩き続けるんだとミュージシャンの矢沢永吉氏が言っていた。これを世の中の話に移して言うとすると、実現しなければならない事があったらその実現を願う個人が一人自ら壁に体当たりして死んでも、結果、世の中によいことがあったらそっちの方がいいのだ。その個人の人生も美しく輝くのだ。
しかし、昨今は、死なないように生きる人間ばかりになったから、この国は凋落してしまった。
私は、まだ、よりもっと自身のその先の在り方について悩み、思索の深淵に嵌って抜け出ることが出来ず、踠いていた身柄拘束直後の頃、「立派に生きたい、ただそのように思う」と母宛に手紙で何度も綴っていた。ここで「立派」に生きたいということは「立派」に死にたいということと同義である。その後、面壁6年余の期間を経て私が辿り着いた境地は、「立派」に生きるということは、「義」に適う他者貢献に真心を込めて尽くすこと、「真理」に向かい生命を投げ出すということであった。
ジョン・スチュアート・ミルは言う。
「自分自身の幸福ではない何かほかの目的に精神を集中させる者のみが幸福なのだ、と私は考えた。例えば、他人の幸福、人類の向上、あるいは何かの芸術でも研究でも、それを手段としてではなくそれ自体を理想の目的として取りあげるのだ。このように何かほかのものを目標としているうちに、副産物的に幸福が得られるのだ。」
この言葉には激しく得心する。これこそが真実である。阿呆みたいに「幸福」になりたいという面をしている輩にろくな奴はいない。逆説的に聞こえるかもしれぬが、「幸福」になりたい人間は「幸福」を求めてはならないのである。否、そもそも「幸福」それ自体を不存在のものとして捉え、これを夢想することを止めることだ。「生」における正道とは何かということを求道的に探究していたならば、緊張感のない顔で惚けてなどいられぬはずである。
もう一度、確認するが「幸福」とは精神活動の所産であって、外部的な物質的、即時的享楽によって齎されるものではない。そして加えて、その精神の向きは自己ではなく他者に向いていなければ真の心の充足は得られるものではない。自分の利益の為の自分だけの心の満足など長続きするものではないのだ。
永遠に間断なくその種の低俗な満足を得続けて一生を終えるなどという離れ業は到底実現不可能である。懸命に刹那な機会の連続を求めて稼動しても、どうしてもその隙間に索漠として虚無が訪れ、その者は必ず人生の価値如何について無意識の中の迷妄に陥らざるを得ない。
どうやらはっきりしたのではないか。「幸福」はそれと想念し直接にこれを求めることで得られるものでなく、「利他」という高貴なる精神の発動の結果として、不意に訪れる自己確証の満足感なのである。それ以外の世の「幸福」らしき称号は全て虚飾に彩られた紛い物である。この論では、人々の慰めの為に虚偽を仮装し自己催眠をなした状態を肯定的に評価することはしない。
純一な「利他の精神」の発動のその発動する行為の際に自己の先々の「幸福」の求めを想念するということは、そもそも性質上相容れず、これが含有されるということは本来的にないのである。「幸福」は「利他」に心の先にある贈り物である。それは要求して貰えるといったものではない。そのようなはしたない振舞いに齎されるものではなく、何らの底意もない純一な心に偶々齎される天の恵みである。
「幸福」とはかくなるものであるが、懶惰な生き方が習慣化された現代の平均人は「そのような楽しみの少ない苦行者のような生活ができるか」とこれを一散して拒絶する様が目に見えるようだ。
では聞くが、貴様は一体、心の底からの精一杯の笑いを得たことがあるか。
虚勢を張っても無駄だ。自らの心に問うてみるがいい。現代人は、ただ薄っすらと卑屈に笑みを浮かべることしかできなくなっているではないか。これはどうしたことか。現代人は思うがままに生きる自由を享受できる環境を手に入れたのではなかったのか。
答えは明らかである。そもそもの考え方が誤っているのだ。利己的な欲望を際限なく求めることによって心が曇り、「真理」を見出す純粋さを失ってしまっているのだ。そこでは他者の存在は、自己の利益の享受することに対する阻害物でしかない。
自らの心の在り方を「利他の精神」で満ちた「善」なるものとしてみようとまず企図したらよい。いやするべきだ。実験的に行うことでもよい。少なからず心が澄んだものとなっていく感覚が生ずるはずである。そこに座しているのがあなたの本当の姿だ。「善」なる心性を持つ者同士の間では、心の垣根は取り払われ、真心と真心の交流が叶うであろう。心は安らぎ平安なものとなる。腹が捩れるくらいの心からの笑いでその場は満たされるであろう。