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「二分思考」を生むメカニズム。

 中居正広さんの女性問題が、いわずもがなですが大きなニュースとなりました。それが今や社員によるアテンド疑惑のあるフジテレビ自体の存続危機にまで広がっていますよね。

 大きな苦痛を受けた被害女性への共感を強く持った人たちや、正義感で憤った人たちが多かっただろうとは思います。しかし、どこまで本当なのかはよくわからないことに対して、「許されることではない」と社会の針が大きく振れてしまったように見えました。きっと、多くの人の目に、そう見えていると思います。ですが、実体はどうなのでしょうか。

 ここには疑問を感じます。そこまで多くの人がほんとうに憤っているのでしょうか。あるいは、これは、怒りを主張し、過ちを決めつける少数の者の声のボリュームが大きすぎるだけなのに、そこにあるはずのない大多数の影を見てしまっているだけなのかもしれない。

 また、この件に限らず、ちょっと評判に傷がついたような人に対しての全否定がネットでは行われがちです。ひとつ問題が起きれば、もうすべてがダメなこととされる。芸能人、政治家、企業、行政、一般人……と、その矛先は誰にでも向けられる(世に出た人にはとくに向けられますが)。僕はずっと、「日本人ってこういう方面には潔癖なんだろうな」と考えていました。ですが、全否定の反対に、人気のある芸能人のふるまいに賞賛の嵐が巻き起こることもあります。これらは極端な価値判断ではないか。そう考えたときに、「二分思考」という言葉を思いだしました。

 今回は、どうして「二分思考」が世の中に大きな勢力を持つのか、について考えていきます。もちろん、ネット上で大きな声を放っている人が「二分思考」にすぎないだけで、サイレント・マジョリティはそうではない可能性は十分にありますし、若い人たちのふるまいをみていると、「二分思考」へのカウンターのように感じられるものがあったりもしますから、この考察も、とある局所を扱っただけにすぎないものになるのだとは思います。それでも、そういった考察からでも、演繹的に、他の事柄へと使える要素が生まれないとも限らないですし、ここはどうか書かせて欲しいのです。

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