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ギラン・バレー闘病備忘録#4『怪物』
家のトイレや部屋の隅が好きだ。
公園やデパートなどの広い空間の真ん中に放り出されると、誰もいないはずなのに気配を感じたり、とにかくソワソワしてたまらない。その点、家のトイレや部屋の隅では誰も立ち入ることのできない自分だけのテリトリーを作ることができ、心から安らぐことができる。
しかし、MRIは別だった。
手も足も伸ばす猶予がない暗闇の空間に拘束され、シュレッダーにでもかけられたかのような轟音が鼓膜を切り刻む。
所要時間は40分程であったが、体感では5倍くらいかかったように感じた。
目を開けても閉じても暗いままで、ここが夢か現実かも分からなくなる。できることなら今まで起きたこと全てが夢であって欲しいものだが、この狭いカプセルに収容され体内を汲まなく検査されている以上、身体にとんでもない怪物が潜んでいることは間違いなかった。
足元の自動扉が開き、手足を貼り付けていた床が外へと動く。久しぶりに視界に入った光で目が眩み、検査技師さんや看護師さんの顔が白飛びしていた。しばらくすると目が慣れて、この空間にいる人達の表情を確認できるようになった。
暗い。空気が重く冷たい。緊迫していた。
外に出たはずなのに、これじゃあMRIに入っていた時の景色と全く変わらないじゃねぇかよ。なんでだよ!
看護師さんの手を借り車椅子へ座ると、また別の検査室へ運び出された。病院に着いたのが10時で、その時が確か14時くらいだったと思う。
また検査か。もう勘弁してくれ。
今夜はドラフト会議なんだよ。
早く帰らせてくれよ。
高校通算111本塁打を記録した怪物・清宮幸太郎の去就に世間はもちろん、この私も注目していたので、家のリビングにある46インチ薄型テレビで
1人の野球選手の運命を固唾をのんで見守りたいのだ。
そんなことを考えているうちにたどり着いた待合室のベッドへ寝転び、
検査の順番を待つ。そこは診察室とパーテーションで仕切られており、
医師と患者、看護師さんとのやり取りが筒抜けだった。
少し寝ていると、母と医師の声が診察室から聞こえた。何を話して
いるんだろう。これからまた検査なのに、その段取りの説明だろうか。
一瞬間が空いたのち、医師の冷徹な声色が部屋全体を凍てつかせ、
静かに木霊する。
『息子さんは、ギラン・バレー症候群で間違いないでしょう。』
絶対に引いて欲しくなかったドラフトの抽選が当たってしまった。最悪だ。そもそもリストアップされた時点で悪い予感はしていたのだ。この手足が言うことを聞かなくなった途端、スーツ姿で溢れかえる記者会見席に座らされ、監督と共にドラフト会議の中継を見せられていたようだった。名前が呼ばれると眼前にいる記者達がたちまちフラッシュを焚き、ギランバレーの「G」が刺繍された帽子を被せてポーズをとらせた。
ここだけには指名されたくなかった。
いつものように最悪な結果をイメージして気持ちが沈み過ぎないように
つとめていたつもりだったが、今回ばかりはどうしても耐えられなかった。だが、やっと自分の去就がはっきりしたことに少し安心もしていた。
様々なことが一瞬にして頭を駆け巡る。
今月キャンセルしたライブのこと、心配してくれた仲間達の顔、
そして何よりこの身体が元に戻るのか。
19歳を迎えたばかりで、これからの音楽活動に更なる弾みをつけたい。
そう思っていたのに、どうして俺だけこんな目に遭わなきゃならないんだ。今すぐにでもここから全速力で逃げ出したい気持ちとは裏腹に、
身体のどの部分にも力が入らない。現実に引き戻され我にかえる。
私はどうすることもできないまま、ただ静かに次の検査を待つことしか出来なかった。
ひと通り終わった後、明日より詳しく調べる必要があるとのことで検査入院が決まった。がっくりうなだれながらも、入院病棟へ向けて車輪が回る。
相部屋は空きが無かったので、個室で過ごすことになった。
夕方、髄液検査がおこなわれることになった。脳脊髄液(髄液)を
採取して分析することで、脳や脊髄の病気の有無を調べる検査である。脳や脊髄の損傷、髄膜炎、脳炎、脳腫瘍、がんの脳や脊髄への転移、ギランバレー症候群などの病気が疑われる場合におこなわれる。
「採取してから2~3時間ほどは頭をあげないようにしてください。」
ベッドに横向きに寝そべる私の背後から検査技師さんが忠告してくれた。注射器に麻酔を込め、「チクっとしま~す」的なノリで背中からみるみる入っていった。思えばこの麻酔が一番痛かった。採血じゃあるまいし、
軽すぎるだろ。
その後の体験の具体的な表現は控えるが、とにかく今後一生経験したくない感覚であったことには違いない。
あえていうなら体の中にあるドアをコンコンとノックされたような、そんな感じがした。
ようやく今日行う全ての検査が終わった。長かった。これほどまでにスローモーションな一日を経験したことはなかった。意識が薄れているさなか
夕食の時間になり、病院食をいただいた。検査中は飲食もままならなかったので、その日初めての食事だった。頭を起こすことができないので、
横たわったまま看護師さんにスプーンを使って食べさせてもらう。
クリームシチューが初めて舌に触った瞬間の感動は今でもよく憶えている。
こうして人生で初めて入院をすることになった私は朦朧とした意識でおもむろにテレビをつけ、日本ハムファイターズに交渉権が決まった怪物の姿を
病室のベッドの中、虚ろな目で見ていた。