この星に一番に住む、透明なクジラの話
我(われ)はこの星の古くを知る者。
約40億年前に海ができ、
39億年前に最初の生命が誕生した。
それからしばらく経ち、
19億年前だったか、突如超大陸が出現した。
それから様々な生命が誕生するまで、
時間は要さなかった。
実に多くの生命がこの星に多く生まれた。
陸に動物たちが居住できるようになってからは
様々な争いも生まれた。
しかし脆くも落石かなにか、
其奴らはあっという間に絶滅した。
我がゆっくりと瞬きをし、
重い目蓋を開けた時には、
其奴らは忽然といなくなっていた。
その後も生命の誕生を山ほど見届け、
その進化を見届け、
自然の嘆きも聞いてきた。
我はそれら全ての証人である。
だが、我の存在を知る者などいない。
我にも対となる共同生命体がいたが、
とうの昔に絶命した。
それがいかほど前だったかも思い出せん。
そういえばその頃からだった。
我の体が透け出したのは。
この星を見届ける役割を課せられた我らは、
たったひとりであろうが、
この身が透けようが、
自然が嘆こうが、
大地が響こうが、
海が裂けようが、
醜い争いが起ころうが、
そこに干渉することはない。
我はひとり、
誰一人としてこの存在を知られずに、
ただこの大海を彷徨いながら、
すべてを見届ける。
見届けるには、
誰からも見えないくらいが丁度良かろう。
クジラはクジラと名乗ることなく、
透明なその体を
ゆっくりと、ゆっくりと動かし
ゆっくりと、ゆっくりと瞬きをしながら
大海を横切っていく。
ある朝、
クジラの眠る少し先、
朝日が昇る方角で、
大きな氷山が崩れ落ちた。
その勢いで海は揺れ、
大きな波が立ち、
クジラのその大きな体に小さく波動が伝わった。
またか…
クジラは重い目蓋を開け、
ゆっくりと、ゆっくりと
そちらへ向かうことにした。
我の体に伝わるほどの水の動き。
また一つ、大きな氷山が崩れ去ったか。
この海もだいぶ温かくなっている。
我の知らぬところで、海がまた泣いている。
温かくなったそれを冷やそうと、
また彼奴が泣いている。
だが我は干渉しない。
我はただそれすらも見届けるのみ。
「ねぇ、なんで助けないの?」
……?
「ねぇ、なんで助けないのってばー!」
誰だ
我に干渉しようとする者は
我は誰にも見えぬはず
一体誰だ
「ねぇ、クジラのおじいちゃんってば」
クジラは
その透明で大きな大きな体の周りを見渡そうと
ゆっくりと、ゆっくりと
尾びれを追いかけようとした。
するとそこに、
小さな小さなアザラシの子がいた。
「クジラのおじいちゃん、
助けに来てくれたんでしょ?
ママが言ってた
あの氷の山が崩れる時、
大きな大きなクジラがやってきて、
僕たちを助けてくれるって」
なんのことだ?
我はそんな約束を誰かと交わした覚えは無いぞ
そもそも我は誰ともあれ以来話しておらん
「でも、ママ、言ってたもん
他のみんなは笑って、
誰も信じてなかったけど
ママはうそなんかついたことないのに、
他のみんなはママをうそつきって言った
だけど、やっぱりママは正しかったんだね!
ママはむかーしむかしに約束したって
その話を何度もぼくだけに話してくれたんだ」
誰かと間違えておろう
我がここに来たのは
たまたま水の波動が我の体に響いたからだ
お主らのことも、約束のことも我は知らぬ
早く母の元へ行け
クジラはその透明で大きな体を揺らしながら、
海を横切るように、泳ぎ出そうとした。
「もう、いないよ
だって、飲み込まれちゃったもん
みんなみーんな、ママも一緒に、
あの氷に飲み込まれちゃったもん」
小さな小さなアザラシは、
悲しい様子もなく、
ただ事実だけをさらっと伝えた。
海を横切ろうとしていたクジラは、
尾びれの動きを緩め、
アザラシの子に聞いた。
お主は悲しくないのか
そして自分でも驚くこととなる。
自分が誰かに干渉しようとしたこと。
そして悲しむという気持ちを分かっていたこと。
ある月の輝く夜のこと。
共同生命体だった彼女は死んだ。
静かな死だった。
どうして死んだのかは分からない。
彼女とはずっと共に過ごした。
山ほどの生命の誕生と絶滅も、
大陸の出現も、
醜い争いも、
自然の嘆きも、
一緒に見届けてきた。
しかし、我とは違うように
彼女はそれらを見届けていた。
彼女は
ひとつひとつの生命の誕生に歓喜し、
絶滅に泣いて悲しみ、
大陸の出現に尾びれを跳ねさせて驚き、
数多の争いになぜ?としつこく問いかけ、
自然の嘆きと共に嘆いた。
一度彼女に問いかけたことがある。
我々は干渉せぬ存在、ただ見届けるのみ
それにも関わらず、
お主は全てに喜怒哀楽し、疲れぬのか
彼女は我に微笑みかけた。
「あなたとの時間は楽しいわ
でも、この星の生い立ちも楽しい
悲しいことも山ほどあるけど、
あなたにはまだ分からないかもしれない
そうだ
ねぇ、
私がもしあなたより先に
いなくなってしまって、
それから、
今存在している中で抜群に大きな
あの氷の山が崩れることになった時、
様子を見に行ってあげてほしいの
この星を助かるか、助けないか、
干渉するか、しないか、
それはあなたに任せるわ
あなたが何を選んでも、
あなたは私の気持ちが分かるはずよ」
なんの答えにもなっていないと思った。
ただ疲れないのかと問いかけただけなのに、
とんだ長話だった。
それから数千年経った頃、
我がゆっくりと瞬きをしている間に、
彼女は静かに死んでいった。
「クジラのおじいちゃーん、聞いてるー?」
アザラシの子の、悪も悲しみもない
ただ明るい声が一気に我を現実に引き戻す。
お主の望みはなんだ
だが、それを聞いたとて、
我には何も出来んだろうがな
「僕の望みなんかないよ
ただ、助けてあげてほしいんだ
海が涙を流さないで済むように
もう氷の山が崩れずに済むように
海の涙だけじゃ、
もう冷えないんだよ、きっと
ママはずーっと昔よりすごく温かくなったって
いつも遠くの方を見て言ってた
寂しそうだった
でもそんな時はいつも
大きな大きなクジラが来てくれるから大丈夫
とても優しいのって言ってたんだ」
透明なはずのクジラの姿が
どうしてこのアザラシの子には見えているのか
分からない。
でも、どうしようもなくクジラは切なく感じ、
アザラシの子の屈託のない笑みと
共同生命体だった彼女とを重ねた。
そして、輪廻転生。
彼女はアザラシの母として生まれ変わり、
約束を果たせと今更言っているのではないか、
そんな風にまたゆっくり瞬きをして考えた。
「そうだ、忘れてた
ママはあの氷の山が崩れる直前に
こう言ってた
"気持ちが分かる"って」
そう言って、
アザラシの子は
透明なはずの大きな大きなクジラの尾びれに
ポンと前足を乗せた。
その時だった。
ウウォォォオオオオオン
ねぇ見て!
オゾンがこの星を覆ってる
これで太陽からの有害な紫外線も遮られて、
陸にも生命が生活できるかもしれないわ
ねぇほら、やっぱり!
四つの脚がある生き物が陸に上がっていったわ
なんてすごい進化なの
あれはなんという生命なの
すごい牙の数…爪も鋭い…恐ろしいわ。
私たちにはできないけど、
空を飛んでる生命もいるわよ!
すごい、あんなに優雅に飛ぶなんて
ねぇ…あなた…
みんなみんな滅びてしまったわ。
私、寂しい…悲しいわ、またやり直しなのね
あれ、あの二足歩行の生命は
火を起こそうとしてるわ
火は争いも起こすから心配だわ
ねぇ、どうして彼らは争うの?
彼らは言葉を話せるのに、
どうして傷つけ合うの…?
ゆっくりとだけど、
この海も温かくなってきたわね
どうしてかしら…
あの氷の山も、いつか溶けてしまうのかしら
あなたとの時間は楽しいわ
あなたにもきっと分かる
きっと私の気持ちも、
この星に在る全ての命の気持ちも、
みんなみんな分かるはず
だってあなたは、その全てを見てきたんだから
アザラシの子がクジラに触れた瞬間、
透明だったはずのクジラの体が
鮮やかな色を取り戻す。
そして色鮮やかな大きな大きなクジラは
海の上を大きく大きく跳ね上がった。
ウウォォォオオオオオン
ばっしゃーーーーん
静かな海が大きく揺れた。
この星全体が静かに揺れた。
そしてその瞬間、クジラは弾けた。
それから数ヶ月、星に雨が降り注いだ。
「ニュース速報です。
数ヶ月降り注いだ雨がようやく世界各地で
止み始めている模様です。
すでに雨の止んだ地域では、
大きな虹が連日目撃されています。
また、この雨には酸性など従来の雨の成分が
含まれておらず、
人体などに及ぼす影響は極めて低いと
世界各国の環境団体が発表しています。
アメリカ政府独自の環境保護チームによると
"この雨により、森林火災の激しかった地域や
これまで酷い干ばつに見舞われていた地域、
木々が伐採されていた地域などに、
新たな木々が急速に成長している"
との報告もあり、世界中で問題となっていた
地球温暖化にも一時歯止めがかかる予測が
広がっています。
南極北極それぞれに滞在中の研究チームからは
"海水温の低下により、
溶けかけていた氷山の進行が止まり、
これ以上進行する可能性は極めて低いだろう"
との報告もされています。
では、次のニュースです。
先日日本最北端の国立自然公園で目撃された
アザラシは現在…」
〜 おしまい 〜
special thanx 🐋 idea supporter by