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罪を憎んで人を憎まず? めちゃむずいよね?
「罪を憎んで人を憎まず」を守ろうとした人の我慢の限界により、「仏の顔も三度」までができたんじゃないかと思い始めている。
私は感覚が合う合わないの判断で生きているふしがある。合わないと思ったらできるだけ避ける。三度も耐えられない。プライベートで特に。
(会社員だと不可避なことが多いのでね……)
其の罪を憎んで其の人を憎まず
《「孔叢子 (くぞうし) 」刑論から》罪は憎むべきであるが、その罪を犯した人は憎むべきではない。罪を憎んで人を憎まず。
仏の顔も三度
《いかに温和な仏でも、顔を三度もなでられると腹を立てるの意から》どんなに慈悲深い人でも、無法なことをたびたびされると怒ること。
書道を習っていると言うと「え?なんで?笑」「文字書く機会なんて減ってるのに、いまさら?」「ユー◯ャンとかでよくない?」と言う人がいた。
通いたいジムが徒歩圏内じゃないので電車かバスで通うしかないと言うと「運動しに行くために交通機関使うの?笑」と言う人がいた。
おすすめされたジムだと私にとっては通いにくくて、その場所だと面倒で行かなくなりそうでさ〜と言うと「そんな人はジムなんて通うなよ!笑」と言う人がいた。
……なぜ???
書道のなにがおかしいのだろう。そんな突飛な習い事ではないと思うんだけど。
きれいな字を書きたいし、墨の匂いが好きだし、あの集中する時間が好きだし。色んな理由があるよ。「書」っておもしろいのよ。
近くに良いジムがなくて、仕方ないからちょっと足を伸ばしてなんとか行ける方向で考えようとしているだけなのに。自分の生活リズムと性格によって通わなくなる条件がわかっているから、少しでも楽して通いたいのよ。キツイことしに行くんだし。
過敏な受け取りをしているだけなのかもしれないけど、非常に真顔になっちゃう案件である。なんでちょっと(笑)が入ってくるんだろう。かなしい。
友だちや親しい人に同じ話をして、嫌な気分になったことはない。「いいじゃん!」「楽しそう!」「私も趣味ほしい〜」とか明るめの反応が多かった。きっと感覚の似た人が集まっているのだと思う。
ただの言い方の問題だろうし、小さなことだし、価値観の違いだよねと思いつつ、積み重なっていくとそれは人柄に関わっていると思ってしまう。
人って、事(コト)の積み重ねだよなあと。
会うと少し傷つくなとか、ちょっと言葉にひっかかるなとか、小さな違和感が回を重ねるごとに大きくなる。そして、やっぱりか……と離れてしまうことが起こる。
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地元にいる頃から仲が良かった友だちと疎遠になったのも、小さな違和感の積み重ねだった。
その子が好きだったし、昔救ってくれた恩と信頼と、気心知れた安心感で繋がっていた。
だんだんと、生活も考え方もすれ違っていることには気づいていた。
何度めかの言動のひっかかりで耐えられなくなり、やんわりと「そういうのはよくないと思うよ」と伝えたら、ものすごく冷たくあしらわれた。
自分は心が狭いのかとか、心地良さばかり求めるのは良くないのかとか悩むことがあるけれど、嫌なもんは嫌だ。
ライターや書く人たちとの関わりが増えていることもあって余計に、言葉・表現の影響の大きさを感じている。
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罪を憎んで人を憎まず、どこかでそっと離れましょう。
という下の句? を考えてみました。どうでしょ。
人は3か月で細胞が入れ替わるらしい。しばらく会わなければあっという間に別人だ。
私だって現時点で人の何かに対して(笑)と言っているかもしれない。
気づいてからが大事。敬意をもっておもしろがる=興味をもつ。相手に楽しく話してもえるように。