葬送のフリーレンの話
アニメ・漫画文化にはあまり接してこなかった。ただ、2020年に本屋大賞漫画部門を受賞した「葬送のフリーレン」についてはなんとなく気になっていた。それが2023年秋からアニメ化されたということで、見始めた。とんでもなくハマってしまった。
葬送のフリーレンの世界には、人間と異なる「エルフ」という種族が存在する。フリーレンはエルフの魔法使いだ。エルフは人間のそれよりも圧倒的に寿命が長いという特徴がある。アニメの現状としてフリーレンは自分のことを「1000年以上生きた魔法使いだ」と称しているし、フリーレンの魔法の師匠の師匠である大魔法使いゼーリエは数万年生きていると推察できる。この人間との「生きる時間スケールの違い」こそが、この物語の魅力のカギでもある。
物語は、勇者一行が「魔王を倒したその後」から始まる。勇者ヒンメル(人間)、僧侶ハイター(人間)、戦士アイゼン(ドワーフ;数百年の寿命を持つ別種族)、そして魔法使いフリーレン。この4人(パーティ)が魔王を倒し、10年の旅路が終わった時点からお話が始まるのだ。「史上最も長いエピローグ」と呼ばれる所以がここにある。10年の旅が終わり、4人はそれぞれの道へと還っていった。そして50年後、勇者ヒンメルはその生涯を閉じる。世界を救った英雄との永遠の別れを、人々は惜しむ。しかしフリーレンは人の死に際して、悲しみといった負の感情を抱くことが少ない。フリーレン曰く「人間はすぐ死んじゃうから」。エルフらしい、人間との生きる時間スケールの違いが垣間見える。しかし、ヒンメルとの別れの瞬間、フリーレンは一筋の涙を流す。エルフからすれば、短い人間の一生なんて、憂うべきものではなかったはずなのに、だ。フリーレンは、ヒンメルと過ごした「たった10年の旅路」が、現在の自分に大きく影響していることに気づきはじめる。その約25年後、僧侶ハイターも死期を迎える。その際、ハイターが育てていた戦災孤児であるフェルンという人間の少女を、フリーレンは魔法使いの弟子として引き取る。このときも、「人間の弟子をとったって、すぐ死んじゃうじゃん」と言ったが、死の間際でも食い下がるハイターに根負けし、フェルンを弟子とした。そしてアイゼンの弟子であるシュタルク(人間)を戦士として旅の仲間に迎え入れ、フリーレン、フェルン、シュタルクの3人で新たな旅が始まる。「私はもっと人間を知ろうと思う」。ヒンメルの死を経験したフリーレンが言ったセリフだ。ハイターとアイゼンは、フリーレンが自分以上に幼いフェルンやシュタルクとともに旅をすることで、「人間とはなにか?」が分かると考えたのだ。新たな旅はやがて、ヒンメルとともに歩んだ10年の旅路をなぞるカタチとなる。フリーレンが再びその旅路を、若き人間とともに歩むことで、「人間を理解していく」物語だと現状理解している。
超個人的主観的な感想だが、「葬送のフリーレン」へのハマりの度合いは異常なくらいだ。本当にいろんな理由で惹かれる。
まず、物語全体がエピローグである点というか、「絶頂期を終えた後日談の受け入れ方」を教えてくれているような気がするのだ。魔王を倒した勇者一行にとって、人生で最大の偉業が、その10年の旅になるのは必然だ(存命のフリーレンは除くとして)。多くの人から尊敬される。英雄として崇められる。ヒンメルは各地に銅像となってまつられる。伝説となった4人だが、ヒンメルの死後、時間とともにその英雄譚は、記憶から伝説へと「なり下がる」。人々は「昔ヒンメル様という勇者が魔王を倒して平和をもたらしてくれたらしい」、「この汚れた銅像はそのヒンメル様らしい」と口にするようになる。物語序盤をアニメで見た感想は、「世界を救った勇者でさえも、その後の人生を考えなければならないんだなあ」というものだった。フリーレンと同じく、人間よりも長い寿命を持つアイゼンはこう言う。
放送当時25歳になったばかりだった。まだまだ若いと思われるかもしれないが、自分がまだ大学に籍を置いているのもあって、教員以外で出会う人はみんな年下だ。おじさんになったとは到底思ってないが、取ったつもりもないのに年は取ってるんだなという感じだ。以前の記事でも書いたような気がするが、23~25歳くらいにかけて、自分の抱えていたコンプレックスやルサンチマン的な悩みが徐々にほどけていった。自らを否定することから発生する反発力を原動力としていた自分をようやく卒業できた気がした。それと同時に、自分のなかで密かに楽しみにしていた「約束」みたいなイベントが成功した瞬間があった。その瞬間は喜びが爆発したけれど、そのあと空っぽになってしまった期間があった。この先の人生で、約束された喜びはもう無いなあと、思い出にすがりついてばかりだった。そんなときに葬送のフリーレンを見始めた。上記のアイゼンのセリフを聴いて、ため息をついたのを覚えてる。老いてゆく未来が分かっていながら、あるか分からない喜びを探して生きていかなきゃならない。別に希死念慮に直結しているわけではないけど、これから先、生きていくのは苦悩が続くんだろうなあとぼんやり思った。
第16話で、フォル爺という年老いた戦士(ドワーフ)とフリーレンが再会する。フリーレン曰く、フォル爺は「長寿友達」。数十年ぶりの再会に心が躍り、昔話に花が咲くかと思いきや、切ない展開が待ち受ける。
こうやって、すがって生きてくしかないのかもしれないと思った。周りにいる、「大人」というか、「大人びて見えている人間」も、実は過去の自分の栄光や思い出にすがって生きていたりするんだろうか?何度も何度もすがった。苦しいとき、決断を迫られたとき、緊張する瞬間…。応援してくれた人、一緒に泣き笑いしてきた人、家族友達その他いろんな出会ってきた人の、笑顔や、声や、かけてくれた言葉を、何度も何度も思いだした。そのおかげでこの道を突っ走ってきてこれた。だけど、その、御守りのような思い出も、泡のように消えっていってしまうのだろうか?怖くなった。今思いだそうとしてみると、視覚と聴覚からの情報は大丈夫そうだ。薄れつつあるのは触角。永遠のお別れをしてしまったじいちゃんの、握った手の感触は、いつまで覚えていられるんだろうか。考えるだけでも恐ろしい。
結局のところ、大事なものは、偉業や名声や地位や富ではなく、忘れがたく尊い記憶なのかもしれない。フリーレンは、フェルンとシュタルクとの新しい旅路のなかで、何度もヒンメルたちとの80年前の旅路を思いだす。でもそれは、強い魔族を倒した瞬間とか誇れる仕事を成した瞬間の記憶ではない。何気ない日常のなかの、くだらない楽しさと、ささやかな喜びと、温かい笑顔が溢れている瞬間ばかりだ。その尊さは、命の時間に限りがあるゆえのもの。当たり前なんだけど、忙しく流れていく時間のなかで見過ごしてしまいそうなもの。ヒンメルとの別れの際に「どうしてもっとこの人のことを知ろうとしなかったんだろう」と、後悔の涙を流したフリーレンだが、新しい旅路のなかで、彼の言葉をいくつも思いだす。ヒンメルはこの物語のなかで、もっとも人格者というか、徳のある人間として描かれている。自分が死んだあと、遥かに長い時間を生きていくフリーレンに対して、大切なことをたくさん教えてくれていたのだ。その言葉たちの意味を、フリーレンは、自分よりも若く幼いフェルンやシュタルクとともに過ごすなかで理解していく。そして、「勇者ヒンメルなら、そうする」という判断基準で徳のある選択をしていく。ヒンメルから教わり、託された生き方を実行していくことで、ヒンメルのことを理解していくのだ。「亡くなった人は、その人の記憶を持つ人の心のなかで永遠に生き続ける」とは本当にそのとおりだなと思わされる。「生きていくということは、誰かに覚えていてもらうことだ」とヒンメルは言う。本当にすごい人だ。きっとこの先のストーリーでも、フリーレンに多大な影響を与えたヒンメルの言葉たちが登場するはずだ。
葬送のフリーレンに惹かれる次の理由。それは「魔法」と「師弟関係」についての描写だろう。前提として、葬送のフリーレンの世界では、現状人間とエルフと魔族が魔法を使える。人間とエルフにおいては、個体によってある程度適性のようなものがあるらしい。さまざまな魔法があるが、「魔導書」という本だったり巻物みたいな紙媒体を読むことで、その魔法を習得できることが多いようだ。そして魔法は修行や鍛錬によって、その技術が向上する。知識や限りある魔力の分配の仕方など、技術にもいろいろな側面があるようだ。
戦災孤児となってしまったフェルンは、ハイターに拾われて魔法を習い始めた。その後フリーレンに師事し人間のなかでは類まれなる魔法の才能を開花させていく。だが、フリーレンと出会ってすぐの頃のフェルンは魔法の技術はあれど、「魔法が好き」とは言わなかった。肉親を失い、生きる術のなかったフェルンにとって、魔法使いとして1人前になることが、自分の生き残る術だと認識していた。だから魔法は好き嫌いで語れるものでは無かったのだ。しかし、そんなフェルンにフリーレンは「魔法は好き?」と尋ねる。フェルンが魔法が好きであることを確信しているかのように。フリーレンは、魔法がこの上なく好きな魔法使いだ。自分に必要かどうかに関わらず、ありとあらゆる魔法を集める(魔法の書いてある手記や魔導書を集めるのが趣味)。くだらない魔法を集めるだけで、何十年も時間を使う。エルフにとってはたったの数十年なのだが、周りの人間にとっては考えられない感覚だ。「魔法は探し求めてるときがいちばん楽しいんだよ」「魔法はもっと自由であるべきだ」と、「誰が」扱う「どんな」魔法であれ、面白いものには興味を示す。この姿勢が、おそらく自然科学(特に自然史研究)の研究者に通ずるものがあるのだろう。研究者界隈でも、「葬送のフリーレン」は人気だ。役に立つか、お金になるか、という価値基準ではなく、自分の好奇心に従い魔法を探求する(しかも人間より圧倒的に長い時間)フリーレンはある意味研究者といっても差し支えない。物語序盤、自分にとって魔法は「生きる手段でしかない」と言い切ったフェルンに対して、フリーレンは「それでも、魔法を選んだ。魔法は好き?」と、諭すように語りかける。確かにフェルンにとって魔法を習得し始めたきっかけは「生きる術」という側面が強かった。でもそのなかで、命の恩人であるハイターとの魔法を介したコミュニケーションをとり、魔法そのものの魅力に心を動かされたはずだと、フリーレンは確信してたのだと思う。なぜなら、フリーレン自身がそうだったから。フェルンが逆にフリーレンに問う。「ほんとうに魔法がお好きなんですね」と。そしたらフリーレンは、「私の集めた魔法を面白がってくれるバカがいた。それだけだよ」と答える。その愛すべきバカは他ならぬヒンメルだ。自分の情熱を捧げる姿を、愛してくれる人がいる(いた)。その事実は、情熱をより一層燃え上がらせる。それをフリーレンは知っているのだと思う。
虫が好き、生き物が好き、自然が好き。好きを原動力に、生きてきた。生きてきてしまった。何度も思った。道を外れたくなるたびに、何度も自分に問うた。本当に好き?まだちゃんと好き?意地になってるだけじゃない?周りは応援というテイで面白がってるだけじゃない?まだ好きでいられる自信ある?…好きじゃなくなってしまえば、今ここにいる理由なんてなくなるのに。苦しくてどうにかなりそうな頭を抱える必要もないのに。何度も思った。今、冷静になんで好きなのかを考えてもよく分からない。意地と言えばそうなのかもしれない。いっそのこと全部投げ出してしまえば…。そんなときに、いや、そんなときに限って、自然や生き物たちの美しさの片鱗が飛び込んできたりする。さっきまで死んだようだった自分の目を、最大限に見張って脳に焼き付けたいと思うような瞬間に出逢う。あーあまただよ。今度いつそんな瞬間に出逢うか分かんないのに、好きな物に引きずり込まれてしまう。ゾッコンだ。自分でもバカだなと思う。そんな、人生を簡単に狂わしてくるような魅力ある世界のそばで生きている。そう思って進んでいくしかなさそうだ。それに、その魅力に魅せられている間に出会った人たちとのかけがえのない思い出がある。魅力に魅せられている自分の姿を信じてくれた人たちがいる。面白がってくれた人たちがいる。これを読んで、その自覚がある(って思ってくれた)人へ。とりあえずこれまでの俺の人生の100分の1くらいの責任背負ってくれ(捻くれ者なりの感謝です)。
フリーレンとヒンメルの道徳の生徒と先生みたいな関係のほかに、フリーレンには本当に「先生」がいる。フランメという人間の魔法使いだ。フェルンやシュタルクが生きる現代から数えて、1000年以上前の時代を生きた魔法使いであり、「大魔法使い」と呼ばれる、人間の魔法使いの始祖らしい。フランメの逸話は、現代では半ば伝説や神話の類とされており、信じる人のほうが少ない。が、そのフランメこそがフリーレンの魔法の師匠なのだ。フリーレンは本当の意味で、大魔法使いフランメの「生き証人」なのだ。ヒンメルの死後、フェルンを弟子として迎えたフリーレンは、旅の目的地を決める。それは、フランメが残した1000年前の手記に書かれていた「魂の眠る地 オレオール」だ。そこは、死者の魂が集い、死者ともう一度語り合うことができる場所だと言う。実は1000年前に、フリーレンはフランメに言われていたのだ。
1000年前の人間だ。当然フランメはヒンメルたちのことなんて知らない。フリーレンが誰と出会い、何を成し遂げるか知らずにこの世を去った。だが、1000年先にフリーレンが失った大切な人のことを「知りたい」と思うことを予見していたのだ。これにはフリーレンも参ったというような声で「1000年も前のことなのに、結局私は先生の手のひらの上か…ご丁寧に、そのページが開かれている。1000年前から、私がここに来ることが分かっていたのか」と言い放つ。
大学院まで進学して、曲がりなりにも研究しているわけだが、まだ学生なので指導教官がいる。主の指導教官以外にも、研究分野の近いお隣の研究室の先生たちも副指導教官として研究を指南してくれる。そのなかに、現在はすでに定年を迎えられ、退官された先生が1人いた。野生のサルやクマを追いかけ続けてきた人だ。温厚そうな先生だが、私が自分の研究の進捗を話すと、研究主題とは近くもなく遠くもないような質問をされたことが2回ある。「(君の研究している生物は)なぜ〜〜なんでしょう?」という具合に、なんというか、「そもそも論」みたいなことを尋ねられる。自分がした実験や調査ではそんな「そもそも論」をバシッと言い切るようなことはできないので、なんとなく有り合わせの知識でその場は切り抜けたのだが、曖昧な答えに対してその先生は「まあ、考えてみてください」と優しく声をかけてくださった。あとになってよく分かった。研究を論文としてカタチにする際、結果について考察を深めようとすると、その先生が尋ねてきた「なぜ〜〜なのか?」の疑問に行き着くのだ。先生にはその思考の道筋が見えてたんですか?って感じだ。フランメのように1000年前から予見されていた訳ではないが、少なくとも30年以上研究者として生きてきた先生にとって、私がやっているような研究がどのような考察に着地するのかを見てきたのだろう。そして、それに対して考慮すべき大事なポイントを押さえてくれていたのだ。研究者というか、指導者はそんなふうに行き着く先の目印をチラ見させてくれるような存在なのだと、今改めて思う。ちなみに私の自然科学の分野には、そんな大魔法使いみたいな人が多い印象がある。
副指導教官の先生もそんな大魔法使いだったわけだが、主たる指導教官も「先生」だ。というのも、直属の指導教官である先生は、自分より上の世代の、なんなら学生時代に実際に講義を受けていたような人たちのことでも「先生」と呼ばない。昔は呼んでいたのかもしれないが、「〇〇さん」と呼ぶ。自分も研究者になった以上、肩を並べる人たちであるという意味で先生と呼ばないのかもしれない。だけど、私にとって指導教官は紛れもない「先生」だ。研究に関することだけじゃなく、人として、大人として、フィールドワーカーとして、教育者として、見習いたいと思う背中をたくさん見てきた。学生生活とは関係ない部分でも、たくさん心を配って下さる。先生はよく、研究室の学生たちにケーキやお菓子をご褒美のように買ってきてくれる。先生が甘党なのもあると思うが、実は先生が学生のころ、そんなふうにケーキを買ってきてくれる先輩がいたらしい。自分がいつか研究室を主宰したらそんなふうにありたいと思っていたのだという。素敵な恩送りだと思った。と同時に、お菓子を買ってくれる以外にも、「自分がしてもらって有難かったこと」を、今私たち学生にしてくれてるんじゃないかと思えた。もちろんすべてが受け売り的ではなく、自分で掴んできたものがたくさんあると思うが、そう思って聴くと指導のなかでいただく言葉も、なんとなく先生の向こう側に大魔法使いたちの顔がチラついたりする。与えられる人から与える人へ。福山雅治の「家族になろうよ」に歌われている歌詞でもあるが、人が成長するとは、結局そういうことなのかなと思ったりする。現在進行形で、余計な心配と迷惑をおかけしまくっている先生に頭が上がらないが、そのご恩を忘れてはいけないと改めて思い直そう。
さて、この記事を書くために葬送のフリーレンを何話か見返したわけだが、そのなかで大きな謎に行き着いた。なぜ人は、縁もゆかりも無い土地であろうとも、大切な人が絶賛した景色を、見てみたいと思うのだろうか?謎だ。というかこの感覚私だけなのだろうか?
3話で、かつてヒンメルがフリーレンに見せたかった花を、フリーレンとフェルンが探すエピソードが描かれる。経緯も含めて大好きなエピソードだ。絶滅したと思われていた花を再発見したフリーレンはその美しさを前に、「遅くなったね、ヒンメル」とつぶやく。
自分がこれまで出会ってきた大切な人たちに「ここ綺麗だったよ」と言われ、見てみたいと思っている景色がいくつかある。その人と一緒に見に行くことが叶わないとしても、いつか見てみたい。老いてからの時間のほうが長い、この先の人生の、密かな楽しみにしておこう。