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幸せな記憶は1粒の飴みたいにすぐ溶けてしまうから
「母の味」で一番特別なのは、わたしにとって「牛乳寒天」だ。今それを冷蔵庫で冷やしながら、キッチンのそばでこれを書いている。
簡単なおやつだけど、長い間、わたしの中であの「やさしい甘さ」はずっとしょっぱいものになってしまっていた。わたしのさみしさが、牛乳寒天を塩漬けにしてしまったのだと思う。
わたしが小学生の頃はまだ土曜日の午前中に学校の授業があった。ある土曜日、授業が終わっておなかを空かせて家に帰ると、母がごはんと牛乳寒天を作ってくれていてわたしは驚いた。母は仕事でなかなか時間が作れない中でもできるだけ手料理を作ってくれた。とはいえ、おやつを作ってくれたのはその時が初めてだったと思う。
鍵っ子だったので家に帰ると誰もいないことも多かったし、ひとりで「ただいま〜」と言っても誰も返してくれない。だからこそ母のおやつは特別だった。ツルッと冷たいおいしさ!仕事で家にいる時間が少ない母が、時間の合間を縫って作ってくれたことが本当に嬉しかった。
嬉しくて何度も牛乳寒天をリクエストしたけれど、理由は忘れてしまったけれど、なぜか作ってもらえることはなかった。些細に思えるさみしかった思い出はどんどん塩漬けされて硬くなり、その他にいっぱいあったはずの母との楽しい思い出が全く思い出せなくなっていた時期もあった。
「牛乳寒天なんてすぐに作ってみればいいのに」とも思えなかった。わたしが食べたかったのは、子どものときに母が作ってくれたあの牛乳寒天だったのだ。
でもここのところ、少しずつ母に関する優しい思い出もなぜか浮かぶようになった。
数年前、わたしがフリーランスになるときにかけてくれた言葉を、ふと思い出した。ずっと見守ってくれている母だからこその、わたしへのオリジナルの言葉。どうしてずっと思い出せなかったんだろう。
人の記憶には多かれ少なかれ偏りがあると思うけれど、幸せな思い出ほど思い出しにくくなってしまうのはなんとも悲しい。
当時、その言葉を「母の名言集」みたいにまとめて投稿したのは確かだ。探そうと思ったのだけど、わたしが思い出した一言だけが重要かもしれないとも思った。
思い出した母の言葉を、いつも悩みも苦しみも書くノートに道端で書き留めた。つい先日、このnoteを公園のベンチで書いてへろへろになったときにふと脳の底から湧いてきて、あの時から、生まれた時から、ずっと肯定してくれていたのだとやっと思えた。
ギクシャクした時期もあり、お互い交流の取り方がつかめないでいたけれど、手作りのマスクを送ってくれたことをきっかけに、文通みたいなことが始まった。
わたしが社会人の頃に母が励まそうと貸してくれた本たちは、当時のわたしにはスパルタに感じてしまった。あの頃は疲れ切っていたから、本より牛乳寒天が欲しかった。時間がたった今、逆にわたしが母のことを考えて本を選んで送ってみたけど、ずいぶん悩むものだと思った。
数日後、両親が送ってくれた本を見て驚いた。「これは明らかに父だろうな」という本もあったけれど、前に母に借りたようなスパルタな感じの本はなくて、優しい装丁の小説があった。
「ここに来れば、過去に戻れるって本当ですか?」と帯に書いてある。わたしはコーヒーが得意じゃないけれど、コーヒーつながりでずっと昔に見たドラマを思い出した。親子関係が大きなテーマの「優しい時間」というドラマ。嵐の二宮くんが出ていた。確かお父さんが喫茶店をやっていて、そのお店ではお客さんが自分で豆を挽けるようになっていた。
わたしはコーヒーの豆を挽いたことはない。でもそういう時間は、本当に過去に戻れるような「優しい時間」になるのだろう。手間がかかるからこそ、ゆっくりした時間を過ごせる。まだこの本は読み始めていないけれど、それがコーヒーの豆を挽くような優しい時間になればいいと思う。
でも、今このnoteを書いているのがわたしにとっては既に「優しい時間」なのかもしれない。牛乳寒天の完成を待ちながら母について考えている。おばあちゃんの得意料理のことも思い出した。母もわたしも大好きだったけどもう会えない。遺品としてもらったレシピ集を、確か実家に置いたままだ。
おばあちゃんのレシピ集をまた送って欲しいとお願いしよう。それは牛乳寒天より難しいので、きっとたくさん失敗するけれど、わたしの今までの人生の試行錯誤も、母もおばあちゃんも見守ってきてくれたはずなのだ。
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