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【読んだ】グレゴワール・シャマユー『ドローンの哲学 遠隔テクノロジーと〈無人化〉する戦争』

戦闘ドローンは、戦争を「戦闘行為」から「殺害行為」に変えたという。その技術的条件は「脆弱性=ヴァルネラビリティ」の克服である。訳者によれば脆弱性とは「被害をうける可能性」の事(P22)。安全な環境から遠隔操作での戦闘を可能にするドローンは、「脆弱性をもった身体を過酷な環境から撤退させることができる」(P33)。身体が同じ空間を共有しない以上、敵から攻撃を受ける可能性は原理的には無い。従ってそれは、「前線、単線的戦闘、対面的な衝突といった概念に立脚した従来型の戦争モデル」(P46)を失効させる。相互に攻撃の可能性のある二者同士の間で行われた戦闘行為は、一方的で不均衡で非対称な攻撃に代わるのだ。それは「前進するハンターと、逃亡し身を隠す獲物というパラダイム」であり(P46)、つまりシャマユーのいうところの「人間狩り=マンハント」なのだ。本書が描くのは、ドローンによってもたらされたこの戦闘行為の前提の転換が、如何に戦争や倫理や法制度、更には国家の根本を変容させるかである。

例えばそれは「政治」や「領土」への関心を消滅させる。かつての反ゲリラ戦闘では、「住民が敵と団結しないようにすると同時に、自分たちの味方に引き入れ」、「敵に対して民衆的基盤を与えないようにすること」が必要だった(P84)。住民をこちら側に抱き込むために「(自分たちの)行動がどう感じとられるか、またそれがどういう政治的帰結をもたらすか」という「住民自体に向けられる軍事的作戦の政治的な効果」が重要だったのであり、それは「渦中の政治的空間をコントロールするための戦い」だった(P84)。しかしドローンは「政治的-軍事的」だった軍事作戦を「警察-保安的」なものに変えた。統治を行わなくても、ドローンによって「効率的に」危険人物を除去できれば良いのであり、もはや攻撃対象の場所を支配する必要はない。それが可能なのは、ドローンがそのターゲットを極めて狭い範囲に定められるからだ。かつて地政学に則って二次元空間に対して投射されていた軍事的権力は、究極的にはただ一人の身体に戦闘範囲を限定するのであり、「あなたの部屋、あるいはあなたのオフィスが戦争区域になる」(P72)。

シャマユーは更に、「精神」(第2章)や「倫理」(第3章)、「法」(第4章)の変容を描き出す。かつては戦争で対立する二者の間では「相互性の構造」があったから(P187)、互いに殺し合い、互いに負傷・戦死するリスクを負う状況を前提に倫理や法が組み立てられていた。しかし、一方向的な状況で行われるドローン攻撃はそれらの刷新を必要とする。ここで繰り出されるのは、まさにシャマユーが『人間狩り』で描き出したような恣意的で狡猾な正当化であり、本書で言うところの「子供染みた論理」である(P191)。

例えば武力紛争における法規において、例外的に民間人の殺害が認められるのは「戦闘行為に直接参加」している場合に限られる(P170)。しかし(撃墜の対象にはなり得ても)攻撃の対象にはなりえないドローンは、そもそも戦闘行為を発生させない。そこで持ち出されるのが、「「兵士」のカテゴリーから「戦闘員とみなされる者」のカテゴリーへの狡猾な移行」であり(P171)、要は「殺害する権利を古典的で法的な制限をはるかに超えて拡張」させるのだ(P171)。その内実といえば、敵対組織への帰属が”疑われる"者の殺害を容認する理屈を捻り出す事であり、その方法は、行動特性や生活プロファイル、すなわち「生活パターン」からの推測である(ちなみに、攻撃対象の特定の根拠が身元の同一性から行動のパターンに移行するのもドローンの特徴である)。言うまでもなく(仮に戦闘行為に警察/司法の原則を適用させるというトリックが成立させられたとしても)推定無罪の原則など蚊帳の外である。

解釈は恣意的に行われる。例えば、元々はドローンへの反対のために明らかにされたオペレーターの精神的ダメージは、かつての自己犠牲の美徳に代わるものとして、英雄主義的なエートスとなる(2-3)。ドローンは確かに自国民の犠牲をなくして戦闘行為を可能にするが、それがドローンの人道的な正当性の根拠として流用される。それは決して他国民の生命を奪う事を正当化する理屈にはならないはずなのに、自国民と他国民の生命の優先度の間にヒエラルキーを作り出し、ナショナリズムが普遍主義よりも優越されてしまう(3-1、3−2)。

シャマユーは、ドローンは社会契約の前提も脱臼させるという(第5章)。それは社会契約が、平時における主権者による国民の保護と、戦時における国民の国家のために犠牲、このふたつの交換によって成立するからという事らしいのだけど、この辺は社会契約論に通じていないのであまり自信がない。ただ、自分たちの生命を犠牲にする事なく戦争が可能になった場合、戦争支持のハードルが下がるのはその通りだと思う。訳者解説で示される通り、シャマユーが一貫して関心を寄せるのは「身体」である(P268)。そして本書の最後で示される通り、国家の権力は根本的に国民の身体に依存している(P252-255)。ドローンの技術的条件は身体の所在やその消失に関わるのだから、それは国家そのものの意味づけを変容させるのだろう。

〈補記〉
シャマユー、本当は『人間狩り』の次は『統治不能社会』を読もうと思っていたのだけど、この本にしたのはNHKスペシャルの「戦場のジーニャ ウクライナ 兵士が見た”地獄"」という番組を見たからだった。