【読んだ】スナウラ・テイラー『荷を引く獣たち 動物の解放と障害者の解放』
障害権運動と動物権運動を交差させる。キーになるのは、「健常者中心主義(=エイブリズム)」への徹底的な批判と、「不具(crip)」の実践である。無論、”crip”とは強烈な差別表現であり、訳者はそのニュアンスを再現するために「不具(かたわ)」という訳語をあてる。テイラーは、自らが浴びせられてきた「不具」という言葉を奪還し、意味を書き換える。「不具化」とは、障害者差別と種差別の双方の根底に共通して横たわるエイブリズムを相対化し、人間同士、あるいは異種間の関係を新たに構築するためのラディカルな実践なのだ。
アリストテレスの古から、エイブリズムは人間文化を根深く規定してきた。それは「どんな身体を持つことが正常であり、どんなものに価値があって、どんなものが「本来的に否定的な」ものなのかをいかに決めるのかを指図する」(P24)。エイブリズムは白人男性を理想化し、精神的・身体的能力にもとづいた位階を作り出す。それは「人間以外の動物と障害者の双方の生と経験を、価値が劣り処分可能なものとして処遇するシステム」を構築する(P111)。障害者の生は平板化され、その差別的処遇が正当化される。同時にそれは動物からの搾取、非道な環境での家畜生産と殺害を正当化する。さらにエイブリズムは「自然」というイデオロギーを作り出す。そこでは理性や自立といった概念が「正常」の根拠とされ、生産性や効率性に基づく資本主義的な価値観が強化される。同時にそれは、弱肉強食のような摂理を「自然」とみなし、肉食を正当化する。
描き出されるのは、障害者差別と種差別のふたつが如何にエイブリズムによって結びつき、相互に強化されているのかである。故に本書は、議論の根拠をエイブリズム批判に集約し、一貫させる。検証されるのは差別言説だけにとどまらない。テイラーはスローフード運動やP.シンガーを批判しながら、動物権運動の中にもエイブリズムが忍び込んでいる事を指摘する。確かに家畜化された動物は明らかに苦痛を訴える。しかし動物福祉を唱える時に「苦痛」を根拠にしてはならない。それは苦痛の感知能力の差によって生命の序列を作りかねないし、容易にQOLの概念に接続されてしまうからだ。あるいはスローフード運動は非道な家畜生産に反対するが、そこでは「野生動物が家畜化された動物よりも高い価値をもつとされる」(P277)。認識しなければならないのは、野生動物であれ、家畜であれ、肉食を肯定する「自然」の観念自体が、実はエイブリズムによって構築されたものに過ぎないという事なのだ。
エイブリズム批判の根拠はどこに見出せるのか。本書が提示するのはおそらく、認知や知性や感情、そして種間で取り結ぶ相互関係、こうしたもの多様性や複雑性や予期不可能性ではなかったかと思う。例えば身体器官が欠損した動物を人間が哀れんで殺すのは極めてエイブリズム的だ。近年の研究は、仮にハンディキャップを負った動物がいても種間を超えて相互扶助システムを形成し得る事を示している。あるいは仮に、我々には認知能力が確認できない生命体がいたとしても、いや、むしろ我々にその認知能力が確認できないからこそ、それが世界と取り結んでいる関係のあり方は我々の予期可能性を超えた所にあり得る。「知性と感情の複雑性は無数に異なった形態をとる」のだから、偏狭なエイブリズムに基づく可能性によって生命の価値を付与し、あまつさえその生き死にをジャッジするのは「僭越」である(P221)。この辺り、例えば小泉義之が『病いの哲学』の中で「決定不可能なゾーン」と呼んだ不随意運動の議論や、あるいは石川義正が中絶を巡って展開した、進化と偶然性の議論を想起した(※)。
テイラーが言う「不具化」とは、エイブリズムに規定されたパラダイムを相対化し、生命体が相互に取り結ぶ関係を新たに創造する事ではないかと思う。それは、「いかに身体が動き、思考し、感じ、そして何が身体として価値があり、搾取可能、利用可能、あるいは処分可能にするのかにかんする常識に問いを投げかけるよう、わたしたちに挑戦すること」であり(P88)、「ラディカルかつ創造的な仕方で、障害の歴史や政治、そして矜持を、それに付与すること」である(P36)。テイラーはヴィーガニズムを実践するけども、それを絶対化する事はない。それはヴィーガニズムを実践できる自身の特権性を踏まえての事だと言うけれども、しかしむしろ重要なのは、人間や動物が取り結ぶ関係の形を固定化せず、常に別の可能性に開いておく事ではないかと思う。
テイラーの議論は断じて、自然の神秘化や再魔術化ではない。エイブリズムが蔓延る社会で「障害者」と規定されるテイラーが、自身の身体を肯定しながら紡いだ、経験に基づく思索である。だからそれは、容易な解決策の提示を拒む。動物実験によって進歩した医療を受けるテイラーは、動物実験の受益者である。ならばどうすれば、動物権運動と障害権運動を両立できるのか。あるいは、テイラーの障害の原因は米軍による有害物質の投棄である。自身を障害者(=不具)にした社会不正を糾弾しながら、いかにしてその身体を肯定的に捉える事ができるのか。数々のアポリアと向き合いながら丁寧に紡がれる思索は、これまでヴィーガニズムや動物倫理、障害者運動について抱いていたイメージが如何に偏狭なものだったのかを突きつける。
これまで多くの場面で、障害者たちは動物と類似する存在として描き出されてきた。言わずもがなそれは最悪な差別的動機に基づく表象である。テイラーはその差別的言説を批判する一方、「動物と比べられるのは必ずしも嫌なことではない」とも語る(P261)。そもそも動物との類似が差別的表象として成立するのは、動物が人間よりも劣るというエイブリズム的な位階が存在するからだ。必要なのは、障害者差別と種差別に共に通底する、言語と認知能力に基づくエイブリズムを根本的に解体する事である。
※小泉義之『病いの哲学』P199-200、石川義正『存在論的中絶』P51-56