【読んだ】橋本努『消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神』
めちゃくちゃ面白い。資本主義も反資本主義運動も行き詰まり、更に経済的な倫理基準も失効した状況において、ミニマリストたちの独特の立ち位置から「脱資本主義」というビジョンの描写を試みる。
前提にあるのは資本主義とその対抗運動の双方の行き詰まりであり、即ち「資本主義の社会は危機を迎えているものの、代替案はない」状況だと(P291)。実物投資の利回りはゼロないしマイナスとなり、資本主義の延命策といえば、金融市場の開拓によるバブル経済、人為的な貨幣量の操作や公共セクターの経済領域の拡大、家計部門へのローン支援による個人消費の拡大等々だと。それはシステムとして不安定な上に過大な債務を伴うものであり、シュトレークが言う所の「危機の先送り」でしかない。加えて、資本主義批判として提示されてきた諸々の方策も、現状のオルタナティブにはなり得ない。例えばハーヴェイが掲げる反資本主義の提案について著者は、「ビジョンとしては魅力的」で「個々の点ではクリエイティブな提案を含んでいる」としつつも、それを「私たちの凡庸な知性で実践すれば、失敗する可能性が高いようにみえる」とする(P306)。
本書が描くのは、この資本主義社会の状況における倫理と精神である。現在の資本主義の行き詰まりがもたらしたのは「適切な生き方の指針となる基準が不透明であるという、倫理の機能不全」だと(P125)。一般的に社会には「正統な文化」というものがあるらしく、これまでの資本主義社会においてそれは「たくさん働いてたくさん消費する生活」であり、もっと言えば「ワーカホリックになって働き、モノを顕示的に消費するような生活」だった(P150)。「近代→ポスト近代→ロスト近代」という著者の区分に則れば、「近代」で求められたのは「予測可能性、機能性、共通性、効率性、一元化による管理、長期計画性、進歩的発想」等々の生産の論理であり、続いて1970年代くらいから始まる「ポスト近代」のフェーズでそれに代わったのは、「管理からの解放、無駄の肯定(カーニバル的な消費)、戯れの肯定、遊びの肯定、パロディやナンセンスの伝達、感情の表現、等々」、生産力主義の生活スタイルとは異なる所に人生の豊かさを探る事であり(P46)、それはおそらく「消費」の論理だったのかと。いずれにせよ、こうした勤労の美徳や顕示的消費に基づく「正統な文化」は、90年代半ば以降の「ロスト近代」のフェーズで失効する。端的に、消費社会は人々を幸せにしなかった(P64-65)。
この状況で生まれた消費社会批判の中に、ミニマリストは位置付けられる。無論、消費社会への批判は、近代市民、リベラリズム、環境市民、保守主義、様々な立場の人から散々なされてきたけども、ミニマリストにはそのどれとも違うユニークさがある。ミニマリストたちは旧来の資本主義が求めた欲望消費から降りる一方、資本主義の打倒を目指すものでもない。「ミニマリストたちは、資本主義に対抗する精神をもっているかのようにみえるが、資本主義を変革するビジョンを示しているわけではない」のである(P290)。おそらく著者がミニマリストの実践に着目する所以は、この独特の立ち位置にあるように思う。
そしてこれは、本書が「脱資本主義」と呼ぶ立場に繋がる。「脱資本主義」という概念を描写する中でこう言われる。
つまりそれが拒否するのは資本の支配力を強める事であり、市場の仕組み自体を拒否するものでは(おそらくありえ)ない。結論はこれぞ橋本先生という感じで、例えば人的資本形成への投資など、資本が一部の富者に集中しない形で所得を社会に還元できる形ならば、「脱資本主義の精神は、必ずしも資本や市場に反対しているわけではない」という(P327)。その上で本書は最後に、ここで言う「脱資本主義」のスタンスは、実はウェーバーが描き出した「資本主義の精神」とも通底し得る事を示す。