【読んだ】デヴィッド・グレーバー『官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』
スコセッシの『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』は「契約」と「権利」を巡る話だと思った。アメリカの入植者たちは契約の概念を駆使し、先住民の権利を恣意的にコントロールする事で支配と搾取と収奪を行った。デ・ニーロとディカプリオはどちらもクズなのだけど、描かれ方は対照的である。契約概念を狡猾にを使いこなして収奪に勤しむデ・ニーロと、(アホなので)それを理解も体現もできずに翻弄されるディカプリオの対決は、近代という概念のメタファーにも思えた。契約にせよ規則にせよ、あるいは映画後半のテーマになる司法にせよ、アメリカの民主主義の根拠である近代的な建前が根本においてそもそも暴力に塗れているという事であり、そしてその内在的な矛盾が限界をもたらしているという事じゃないかと。そう考えるとスコセッシってずっとアメリカ社会の根拠を問い続けてるよな、とも思う。
とか何とか考えながら積読本からグレーバーの『官僚制のユートピア』を手に取ったのだけど、噂に違わず超面白かった。「官僚制」と言っても原題にあるのは「Bureaucracy」ではなく「Rules」であり、描かれているのは「鉄の檻」的な話というよりは契約や規則を巡るペーパーワークや事務手続きであり、その冷酷さというよりは馬鹿馬鹿しさであるように思う。いずれにせよ、「合理性」「効率性」「管理運営」といった概念がそれ自体として目的化し、創造や想像のような価値に関わる営為が従属的に位置づけられる今の社会の様相と、そこに至る歴史を書いた本かと。
官僚制の根源としてグレーバーが描くのは「想像力」をめぐる不均衡である。それは「解釈労働」と呼ばれるものであり「他人の動機や感覚を解読する努力」(P94)の事だと。無論それは通常の人間関係ならば当たり前の営為なのだけど、暴力を根拠にした支配関係においては不均衡な状況を作り出す。暴力は唯一、相手への想像をキャンセルして社会に効果を及ぼせる営為だからである。必然的に、支配者は被支配者を想像する必要はなく、被支配者は常に支配者を想像し続ける。これをもってグレーバーは「構造的暴力」と「想像力の不均衡」と呼ぶ。無論、(最近文庫化した萱野稔人の国家論が示すように)暴力の独占を通じた支配とは今に至るまで国家の根拠である。そして官僚制度は、この構造的暴力を温存するために機能する。多分本書の肝の一つはこの「想像力の偏差構造」を「疎外」と定義してマルクスを読み返す事であり、左翼思想の根本に想像力を据える所ではないかと思う(P125~)。
現在起こっている事はこの官僚制が全社会化する事であり、殊にそれは冷戦崩壊以降のアメリカで甚だしく、それは明らかに社会をダメにしていると。現在のアメリカの資本主義の形態は「競争の大多数が、擬似独占大企業の官僚的機構内部での内部取引というかたちをとる」という状況であり(P204)、その目的は「利潤の形態で富を取得すること」であるからして(P21)、価値の問題は等閑視されていると。それ故大胆で放縦なイノベーションを誘発する「詩的テクノロジー」よりも、効率的な管理運営を手段ではなく目的とする「官僚的テクノロジー」に移行しており、故に帯文にある「空飛ぶ自動車」は生まれなくなったのではないかと。
酒井隆史が訳者解説で強調しているように、第3章に至って本書は官僚制度を否定するのみではなく、官僚制度に対するフェティッシュな欲望の根拠を描き出す。例えば「合理性」が手段ではなく目的となる根拠が、ピュタゴラス学派の理性概念と神秘性の関係に遡れるというのも面白い。あと、「ゲーム」と「プレイ」の概念区分をを元に、前者が規則に則るのに比べて、後者は規則を創造生成する営みであり、つまりそれって主権の事だよね、という話もなるほどと思った。故に、「官僚制の魅力の背後にひそむものは、究極的には、プレイへの恐怖である」というのも膝を打つ(P275)。この「プレイ」と「ゲーム」を「反権威主義」と「共和主義」に重ねた上で、グレーバーは後者の中に潜む幻想を描き出す。それは「万人が規則に則してプレイし、そして規則に則してプレイする人間がそれでも勝利できる」というものであり、それ自体は否定されるものではない(P292)。しかし現状それが「はかない幻想」に留まっているのは、下記のような状況があるが故である。
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