【読んだ】山本圭『不審者のデモクラシー ラクラウの政治思想』
ラクラウのポピュリズム論を著者は「不審者のデモクラシー」と言い換える。「不審者」とは、「不完全なアイデンティティを持つ不安な主体」の事である(P211-212)。逆に言えば、これまで政治的主体には常に確固たるアイデンティティが前提されてきた。例えばマルクス主義においては、個々人の利害は全て階級に還元された。あるいはマルクス主義への批判から生まれた熟議民主主義や闘技民主主義では、自らの意見や利害を明確に表明する「強い主体」が前提にされる。
あるいはその前提は「同質性」とも言える。例えば民主主義論は「包摂」が「排除」と同時進行されてきた事を語り、アンダークラス論や社会的排除論は「包摂/排除」の境界線を多元化しようとする。しかしそれは排除される者同士、あるいは包摂される者同士の同質性を前提にする。しかし不審者はそもそも「包摂」とも「排除」とも異なる領域で曖昧に宙吊りされた存在である。「同質性」を前提にした構図においては、不審者はそもそも表象され得ない。
「不審者のデモクラシー」は、こうした不安定なアイデンティを前提に、政治的なものの再起動を試みる。その方法が、ラクラウによって理論化されたポピュリズムだと。ポピュリズムと言うのだから目指されるのは「動員」であり、「人民」の構築である。しかし同時にそれは「同質性」を拒絶する。互いに異質な諸要素を結びつけ(節合し)、異なる者たちが異なるまま、政治的なフロンティアを構築しなければならない(等価性の論理)。
この不安定なアイデンティティ同士を結びつけるのが「空虚なシニフィアン」である。例えば「正義」「自由」「平和」といった、「それ自体としてはいかなる具体性も指示しない」言葉によって人々が結びつく。個別性が喪失されたその言葉は、空虚であるのと同時に普遍的でもある(P99)。しかしその普遍性は、ヘゲモニー闘争のなかで現れる一時的な地平であり、「偶発性を孕んだ普遍性」でしかあり得ない(P99)。
この「偶発性」についてのラクラウの立場を示すのが「ポスト基礎付け主義」である。全てを階級還元主義と経済決定論に集約させるマルクス主義の態度を本質主義として批判するラクラウは、これまで自然化=客観化されてきた正統性や基礎付けを疑う。しかしそれは、いかなる基礎付けも拒絶する「反-基礎付け主義」とも異なる。「私たちは基礎付けそれ自体を必要としているのだが、それはつねに不安定な基礎付けであるほかない」(P79)。ラクラウは単に普遍性を拒絶するのではなく、普遍性がアドホックなものでしかあり得ない事を前提に、それが常に偶発性に開かれてしまう不安定さに耐えるよう求めるのだし、その不安定性にこそ民主主義の可能性を見出そうとする。「不審者」という不安定なアイデンティティは「新しいヘゲモニー闘争の資源」なのであり、それによって思いもよらなかった節合関係が可能になり、既存の権力関係を新しく組み替えるような異議申し立てを可能にする(P284)。
不安定なアイデンティティしか持たない不審者は、今日あちらこちらに顕現していると著者は言う。だからおそらく、ポピュリズムに基づく「不審者のデモクラシー」のプロジェクトは左派の願望ではなくて不可避な方法なのだろうし、これだけ感情分化した現在でもそれはそうなのだと思う。しかしもちろん、それが民主主義をもたらすとは限らないし、事実、ポピュリズムを巡って左派は敗北し続けてきた。この本が上梓された2016年には最初のトランプ旋風が起こったのだし、自分がこの本を手に取ったきっかけも、国政選挙や首長選挙で繰り広げられるグロテスクな光景を目の当たりにしたからだった。ラクラウの原風景はアルゼンチンでのペロニズムであり、それは「ラクラウの思考に終始取り憑き苛む悪夢であったと同時に、彼を魅了してやまない壮観なスペクタクルであった」というけれども(P220)、「悪夢であり同時に壮観なスペクタクルである」という表現は、自分が今まさに目にしているものを言い当てているな、とも思う。ポピュリズムと民主主義の関係が論じられる最終章では、「ヘゲモニー論にもとづくラディカル・デモクラシー論は民主主義のための指針たりえない」とされ(P269)、更には不審者のデモクラシーは「根源的な民主主義を準備する道程になることは理論的に担保されておらず、またそれを保証する手立てもない」とされる(P284)。
しかしこの理論的な隘路を踏まえてなお、本書は明確に民主主義を、しかもポピュリズムとセットでリブートする事を鼓舞する。根拠はおそらく「偶発性の論理を受け止めることができるのは民主主義において他にない」(P23)という確信である。「現行の権力関係が不変ではない歴史的な産物であり、したがってそれを自然化しないための異議申し立てを可能にする」政体は、デモクラシーでしかあり得ない(P23)。無論、楽観できる状況ではないのだけど、「私たちにおいては明らかにオプティミズムが足りない」(P142)というのも確かにその通りだと思った。民主主義への信頼がガタガタに揺らいでいる自分にとっては、現状を悲観した先には多分死ぬ以外の道が無いなと割と真剣に思うので、少なくてもこの話を追うのはとても大切な事な様に思った。