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動機が不純じゃダメですか? 倫理的思考とは(1)結果説、義務説
倫理的に考えるとは
エシカル消費、エシカルファッションなど、「エシカル」という語のつく言葉を最近見かけることが多くなっています。
エシカルというのは「倫理的な」という意味です。
たとえば、倫理的消費とは、単に環境に良いだけでなく、生産者(特に途上国の人々)に配慮された価格のものを購入したりすること。
倫理的ファッションとは、つくるプロセスとして環境にやさしかったり、服の労働者(やはり途上国に多いです)に配慮がされていたりした服を購入することなどといった理念、考え方です。
これからますます「エシカルに考えよう」ということが、行政やビジネスの上などでも、大事になってくるはずです。
労働者からあらゆるものを搾取しないでモノやサービスを提供すること、労働者や消費者のジェンダー平等に配慮すること、こうした「エシカル」な取り組みが、企業のブランド戦略と並んで、あるいはそれを補強するために、大事なことになるはずです。
とはいえ。
エシカルつまり倫理的に考えるとは、どういうことなのか。
先に身もふたもない話をします。倫理的な思考に、正解はありません。
しかし、倫理的に考えることは「説明責任」を果たすうえで、大きな意味を持ちます。
倫理的な考えによって行われたひとつのビジネスが、結果的に、別の意味で倫理的でない結果をもたらしたとしても、倫理的に真摯に考えたことを人々に説明できれば、批判や非難は和らぐのではないでしょうか。もちろん、批判されたことは、また次のビジネス展開にいかすことが、何より必要ですが。
また、
倫理的思考のひとつの正解がない、ということは、ひとつの倫理的な考えだけを根拠に行動してはならないことでもあります。
たとえ最適な解答は得られなくても、様々な倫理的角度から検討し、よりよいもの、ベストでなくてもそれに近づける、これが望ましい倫理的思考です。
そのためにも、中には相反するようなものも含め、様々な倫理の考えを知っておくことが、何より必要になってきます。
倫理的思考、その1 結果説
「電車でお年寄りに席をゆずる」、これが倫理的な行動であることを否定する人は、あまりいないと思います。こういう単純なことには、最適な解答がありそうです。
とはいえ、解答にいたるまでのプロセス、考え方には、いくつかのものがあるはずです。それを知ることが、複雑な倫理的思考の実践につながります。
「優先席に座っていたから、いたたまれなくなってゆずった」「彼女と一緒にいたから、いいところを見せたくてゆずった」「ちょうど次に降りるところだったし、早く降りて乗り換えしたかったとき、たまたまいたお年寄りにゆずった」……
こんな、場合によっては「不純」なものも含め、いろんな考え方で席をゆずっても、結果、倫理的な行動が行われたことになります。こんなふうに「結果オーライ」、結果が倫理的だったらいいじゃない、という倫理的思考のことを、結果説、といいます。
当たり前じゃないか、と思う人がいるかもしれません。
しかし、SNSなどでは、募金のために活躍をしている人がよく「売名だ」「偽善だ」と非難されていたりします。こういう人のなかには──何かでムシャクシャして、憂さばらしに不条理な批判をしているのかもしれませんが──「動機が不純なチャリティはダメだ」と思って、こう批判している人も、一定数いるはずです。
募金が集まって「結果オーライ」になるはずなのに、「人の親切心を利用して、売名しようとしている」「自分がいいことをしたと、ひとり優越感にひたるため、人の親切心を利用している」こういう考えもまた、倫理的思考です。
実際、チャリティで有名になり、収入が増えてリッチな暮らしをするようになった人をみて、違和感を覚えたことのあるひともいるかもしれません。
もちろん、それでも「偽善でもいいからお金を集める」ことを否定することはできない……倫理的に考えるというのは、なかなか難しいです。
倫理的思考、その2 義務説
結果説に「心から」反対する人たちは、お年寄りにも「心から」の気持ち、義務感で席をゆずっているはずです。そのため、こうした、人間としての義務を果たすために倫理的行動を行うという倫理的思考を、義務説といいます。
たとえ自分の調子が悪くても、実は足を痛めていても、「いつ、どんな状況でも、お年寄りに席をゆずることが若者の義務なのだ」と考え、席をゆずることこそ、本当に倫理的な行動なのだ、ということです。
たまに、有名人であることを隠して、あるいは、いちいち公表しないで、しかも自腹を切って、ボランティアをする人がいます。そういう事実は、今ではどうしてもSNSで伝わったりしてしまいますが、それでも本人はそれを問われても何も答えなかったり、はぐらかしたりします。
こうした人の姿勢にある種の感動を覚える理由の1つは、「この人は義務感から、こうしたボランティアをしているんだ」というふうに感じるからです(他にも理由があります。それはまたどこかで……)。
それに感銘を受けて、同じような行動を取る人もいるでしょう。そして、ボランティアの輪が広がることになるかも知れません。つまり、義務説にもとづいた倫理的行動もまた、結果説によるものと同じくらい、社会に大きな善をもたらす可能性があるのです。
そう考えると、「どんなことでも、人間の義務として……しなければならない」という考え方、つまり義務説にもとづいた倫理は、いっけん窮屈そうにもみえますが、大事な倫理的思考ということがいえます。
結果説と義務説、どちらも大事
では、いざとなったら、結果説と義務説、どっちで考えるべきなのでしょうか。
さきほども言ったように、正解はありません。むしろ、両方の立場で考え、行動することが重要なのです。
たとえば、大きな震災が起こってしまったときのことを考えます。
早く募金を集めたり、ボランティア活動が必要なときには、売名でも偽善でも、そんな動機はともかく、結果説にもとづき、倫理的行動がいち早く行われることが、社会にとって必要になるかも知れません。
しかし、震災復興が長期化する中で、ボランティアなどが続いていくためには、義務感にもとづいた活動が必要になってきます。
しかし、売名的あるいは偽善的な動機で始めたボランティアが、いつしか自分の使命感・義務感に変わるひともいるはずです。それを見据え、どの段階で何をすればいいのかを考えることが、公共サービスや、社会のことを考えたビジネスには必要になるでしょう。
そう考えると、結果説のほうが、あるいは義務説のほうが、……などというふうにはならないはずです。むしろ、両方の考え方を知っておくことが重要になるはずです。
(もちろん、他の行動も、結果説と義務説それぞれを用いる思考によって生み出せそうです。考えてみてください)
さて、ここでは、あたかも倫理的思考は結果説と義務説、2つしかないようなことを書いてしまいましたが、そんなことはありません。次の回では、他の様々な倫理的思考について、お話していきたいと思います。