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五輪への道 戦争への道

『三陸新報』2021年7月1日
なぜ戦争を止められなかったのか
聖火リレーの記事が本紙(20日)の一面を飾った。http://sanrikushimpo.co.jp/2021/06/21/4113/
 これがあの戦争を止められなかったことにつながる、と気づいた方はどれだけいるだろうか。この投書が掲載されたということは、本紙の記者の中にもその想いを共有する人物がいること、そして五輪強行に不安を抱く読者も少なからずいるということでもある。
 NHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」(2011)で、戦時体制の中枢にいた軍人や官僚に膨大な聞き取りを行い、その調査結果をまとめている。
 驚いたのは、陸海軍の軍官僚や政治家など当時のリーダーたちが戦争に勝ち目がないと知りつつ、決定の責任を互いに押しつけ合う実態だ。大局的視野に立つことなく組織利害の調整に終始し混乱が広がる。派閥優先と膨張体質という内向きの行動が軍のエリート集団を戦争へと暴走させていく。
 そして、その暴走を加速させたのが新聞と国民だった。部数を伸ばすため軍の主張に合わせていく新聞と、その紙面・ラジオに影響されナショナリズムに熱狂していく国民、そして、その国民の支持を得るため自らの言動が縛られていく政府・軍の幹部たち。この三者が一体となって戦争へと突入し、300万を超える命が失われたのである。
 一面を飾った五輪の記事に、また同じ道を辿っているという苦い想いがこみあげてくる。

国民の不安も科学的な提言も無視 

5月初旬、立川相互病院(東京都)に、こう書かれた紙が窓に張り出されて話題になった。「医療は限界 五輪やめて!」「もうカンベン オリンピックむり!」
 開催しないでくれ、という悲鳴のような訴えが病院や医師、看護師から続出し、海外の医療専門家からも「新たな感染拡大の原因になる可能性が高い」と警鐘が鳴らされている。7~8割の国民が五輪の「中止」や「再延期」を求めているにもかかわらず、なぜ五輪を強行するのか。
 
まるで「インパール作戦」
 戦史研究家の山崎雅弘氏は、新型コロナウイルスの感染が広がる中での五輪の強行は、その無謀さの点で戦中の「インパール作戦」と共通すると警告する。
 「インパール作戦」とは、太平洋戦争末期に日本陸軍がビルマ(当時)からインド東部に向けて行った侵攻作戦である。作戦を指揮した軍司令官の牟田口廉也は、無謀な作戦と指摘した参謀たちを排除し、作戦を強行した。だが、日本軍は前線への補給が続かず、作戦は3か月あまりで失敗に終わった。そして、撤退路の多くで将兵が飢えと病に倒れた。餓死者、病死者が続出し、9万人の兵士が1万人になってしまった。
 山崎氏は「国民の多数の反対を一顧だにせず、開催強行に邁進する菅政権の態度は、インパール作戦を強行した牟田口の姿を彷彿とさせる」という。

開催による経済への大打撃
 エコノミストの木内登英(たかひで)氏が、五輪を中止した場合と開催した場合の経済損失を試算している。
https://www.nri.com/jp/knowledge/blog/lst/2021/fis/kiuchi/0525
 試算では、大会を中止した場合の経済損失は1兆8,108億円。だが、コロナが蔓延して緊急事態宣言がだされた場合は、その額をはるかに上回るという。
 木内氏の推定によれば、第1回目の緊急事態宣言による経済損失の約6.4兆円、第2回目は約6.3兆円、第3回目の現在でも約3兆円となり、さらに増加する見通しだ。
 「大会を開催して、仮に感染が拡大して緊急事態宣言の再発令を余儀なくされる場合には、その経済損失の方が大きくなるのである。」

日本人の「本質」は変わらないのか
 映画監督の伊丹万作氏は、戦争を止められなかった日本人の「本質」をこう指摘していた。
 「今度の戦争で、国民はみなが「だまされていた」という。「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。」
「そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。」
「「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。」
 伊丹氏がこれを書いたのは75年前だ。新型コロナは、そんな日本人に業を煮やして現れたのかもしれない。

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