ゆらぎを楽しむ方法/食とまなびのブログ
人の顔や姿形が違うように、感覚も違ってあたりまえではないか。
しかし、多くの場合、自分の感覚を他人も同じように感じていると錯覚してしまう。
さらに、同じように感じてほしいと要求してしまう場合がある。
人間関係がギクシャクする要因のひとつだ。
「あの映画、よかったよねぇ」「そうかなぁ・・・」
「こないだ見たあれだよ!!」「えー、あんなだったっけ?」
「寒いね?」「少しも寒くないわ」
「同じ青を見ても、私の見ている青とあなたの見ている青は違う」
多様性を認めるかどうかの前に多様性を認識すること。
そして多様性を楽しむこと。
共感や同調といった共有は安心でき、楽しいものだし、本能的な欲求の1つであろう。
しかし、時にはその多様性を楽しむのも一興ではないか。
まず、共有したい、混ざりたい、合わさりたい、触れ合いたい、という本能的な欲求はなぜ産まれたのかを考える。
生命体は太古の地球で奇跡的な確率で産まれたらしいが、それと同じ位奇跡的な確率だったのが、自分と他人を区別する能力を身に付けたことらしい。
生命は自分と他人を区別することにより加速度的な進化を手にした。
しかし、自分と他人を区別したばかりに、寂しさも手に入れてしまったらしい。
だから、人間は本能的に他者(人や生物だけでなく自然や物なども含めての他者)と触れ合うことに幸せを感じる。
この欲求は非常に強い。
もう1つの多様性を考える。
多様性が発生する理由は明確。
生物の進化の過程において、生き残るものは弱肉強食ではなく、適者生存。
予期せぬ環境の変化に対応するためには、DNAを完コピをしないということが重要となる。同じように見える個体でも全て必ず違いがある。
コピーをするときに必ず少しだけ“ゆらぎ”を発生させるのである。
多様性は必然であるにも関わらず、本能が同一を欲してしまう。
ここに矛盾が生じ、つじつまを合わせるために、無意識に多様性を見ないようにしてしまう。
しかし、私たちは思い出さなくてはいけない。
人の顔や姿形が違うように、感覚も違ってあたりまえではないか。
ゆらぎを楽しんでしまおう!
その方が自分を認識できる。
その方が2倍幸せを感じることができる。
ダイバーシティという言葉が使われるようになって久しいが、ゆらぎはあたりまえながら人間だけに限らない。
動物も、植物も一緒である。
同じに見えるきゅうりは実は一本一本違う。
料理人も違う、同じ人であってもその日によって感覚は変化する。
ということは、きゅうりの酢の物は毎回違うはずである。
「同じ金額払ってるんだから同じものを出してくれなきゃ」
「チェーン店なのに味が違う」
「プロなんだから同じクオリティを出さないと」
「電化製品は当りはずれがある」
もちろん提供する側は常にその時にできる最高のものを提供するように努める必要があるかもしれない。(もしかしたら、必要ないかもしれないが)
しかし、受け取る側は。
受け取る側は常に最高に楽しめばいいのではないかと思う。
ゆらぎが必然だとすれば、常に最高に楽しむためには、同一を求めるのではなく、むしろ、ゆらぎを楽しんでしまうことが必須となるであろう。
「おっ!今日の生姜焼きは味が濃いぞ」
(オヤジ疲れてんのかな?いつものお礼を言ってみよう)
「今回のバラはすぐ枯れてしまったよ」
(枯れるからこそ美しいんだよな)
「えっ?!インフルエンザで急遽お休みなの!!」
(誰かの出番だし、何より俺の出番だな)
ゆらぎを楽しむために。
以下の2つとリカバリするスキルを磨くと、ゆらぎは楽しみでしかなくなる。
1.ゆらぎをキャッチ出来る感度を上げると楽しくなる:味が濃いと感じられるかどうか。
⇒繰り返しの経験と多様な経験により習得可能
2.ゆらぎを受け入れる寛容さを上げると楽しくなる:バラが枯れるのもまたよしとできるかどうか。いいかんげんさ。
⇒多様な現実を見聞きし、体験することにより習得可能
あー、楽しい。
今日も、自己成長を楽しんでいこう。
感謝します。