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コンデジ買って1年、壊して交換、いまは大事に使う。

 早朝・夜に散歩、時に昼間に散歩、ふっと気になったのがお月様。なにか、ずっと観られているような気配。よくある他人に凝視されていて、ふっと、その視線に気づく、あの感じ。

 もちろん何の声掛けやアクションがあるわけでない。ただじっと見られている。うさぎの餅つきかかぐや姫が地上の人々を見ているのか、そんな感じの方が好き。アメリカの月面着陸で、その夢と期待が薄れつつ、いまかえって、そっちの方に気が向く。

 事実なんてどうでもいい。テレビや新聞、そしてここ数世紀、飛躍的に進歩したと自称する科学、それ自体、人間の生き様に、どれほどの影響や力があるだろうか、もちろん宗教のいう天国・極楽と地獄など、その人その人の思いようである。

 それでも、多くの人が、般若心経などを読み唱えている。イスラム教は、自爆テロなどいのちを捨てて神に仕える行動、実際、キリスト教もイスラム教も、まして仏教もよく知らない。

 18年前父が亡くなったおり、阿弥陀様、一目も見られなかった。今年3月母が亡くなったおりも、阿弥陀様、なんにも感じなかった。

 浄土真宗、一体なんだろう。葬式仏教が葬式の際にも、なんのお姿もない。南無阿弥陀仏とは、なんなのか。

 月は、物は言わない。科学では、それはあり得ない。

 いわゆる民間信仰で、お大師様、いわゆる弘法大師、氏名や生年月日で、いろいろな人生の指導や相談をしている、私は、かつては、全く信じなかった。次第に年齢を経るにしたがって、一概に否定できない状況もあった。

 これは、なぜだろう。

 当然、わからない。

 お月様と同じ。自分自身のこころの中の問題だろう。

 月との対話は、自分のこころと。

 ひとり静かに、虚心坦懐に月を観ながら歩く。そうすると、こころも体も、落ち着いてくる。また、明日もがんばろう。

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