十八夜 なんでもいいけど 月が好き
月面の、まだら模様、いろいろ名前がついている。憶えきらない。根本的には、そういう趣味や関心がない。月に、天文学、地学的その類の科学を、私は求めていない。むしろかぐや姫や餅つきのウサギさんを欲するのです。期待はしていません。もし、あったら、それはそれでパニックることでしょう。
月との対話、ある意味、神との対話。自問自答の世界。
月の傍らに、たぶん木星が光っている。ここ数日、直近の位置に見える。今宵は、下?の方に見える。天文学では、日々、恩恵を受けている、われらが太陽の惑星で地球より外側にある大きな惑星、とても理解に絶するけれども、地球と兄弟って感じ、生物や人間みたいな存在はないようだ。でも、それはそれで、そういう世界。
いまは輝ける星、もっとリアルに観たい。天体望遠鏡でも買って、愉しむか。いずれ。すべて想像にちかい、昔の人は、様々な思いで星を見たことだろう。ギリシアやそれ以前の科学者、宗教家その他もろもろの人々。
ガリレオやケプラーやアリストテレスなどなど。
私の星好きは、シリウスから始まった。昴であり、いつか月に変わった。
はじめは、スマホのカメラで撮った。とても撮りきれない。ただ光っているだけ。いまはまだ、いうところのコンパクトデジタルカメラで撮って、自分一人愉しんで悦に入っている。
偶にきれいに撮れると、こころウキウキ。
数日前まで、満月を取ることに執心、一昨日は、仲秋の名月、雲の間に月が出た。
現役時代、そんな月に物を想うなどと言ったことは、まったくなかった。いま、大相撲、テレビ放送している時間、仕事ばりばりの時間帯、とても心や関心は、大相撲にはいく余裕はなかった。
ギリシアの哲学者の言葉、「閑暇に憩うのは難しい。」、無職・年金生活者は、暇を持て余しているといわれる。ボケやすい、認知症という懸念、日々、精神集中して、いささかでも植物人間にならないよう努めたい。
物はいいようで、認知症5人に1人、じゃあと4人は、って感じ。
何にしても、日々闘いだ。大相撲で、力士・関取が、土俵の上で、真っ向勝負しているように、私も、日々瞬間瞬間を生きぬきたい。
それで燃え尽きたとき、御仕舞い。南無阿弥陀仏
おやすみなさい。
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