日常性への埋没とは何か、沈んではならない
高齢者のみならず人の日々の生活とは、ほぼ同じような毎日である。
朝起きて食事するまでの流れ、その後、基本的には同じこと。昼食も、その後も、日によって所用があり、飛び入りの用があったりする。そんなに変わったことは起きない。
自分なりに、自己研鑽に努めるといきったところで、他人様から見たら、単なるお爺さん、年寄り、関心ある人で、変わった人程度の認識だろう。
みんな自分のことに忙しくて、他人のことなんか構っていられないのが現実。それが本心、他人を見ていたところで、よほど利害関係がない限り、全然、意味もないし、得も損もしない。なにかあれば別だけど、ない。
今の御時勢、コロナがらみの非三密、マスク・帽子・サングラスで不審者が街にあふれている。サングラスが必要なのかどうか疑問だが、現実に顔を隠すのが通例となってしまった。
こんななか、退屈せずに、自分の意思や欲求を正常な形で維持するには、ただ日々の流れでいいのかと疑問に思うことがある。
読書、ウォーキング、ショッピングなどルーティンを流していくと、マンネリ化して、ボケてしまう。なにか目標と言っても、おのずから限界がある。なにか趣味という声が聞こえそうだ。
多方面の読書、これは欠かせない、しかし点検・チェックが必要だろう。
たとえば小説を書くと言っても、いま読んでいる平野啓一郎、百田尚樹、四方田犬彦の三氏だけでも、マネのしようがない。レベルがあまりにも高い。テーマ設定、理念・考え、資料収集などだけでも、考えるだけでも、そら恐ろしいものがある。
音楽、ピアノをやってみたい。現実には、習いに行けば、学費、昔でも月1万円、ものになればいい。もうすでに69歳、普通の指導では無理、もう自学自習しかない。NHKで放送される駅ピアノに一度出てみたい。それが夢だ。夢に向かって撃て!言うは易く、行うは難し。
天文、いまはせめて夜歩きの月や星を眺める程度。カメラを始めて、いつも月の存在を感じて、コンデジで撮った。それでも、まだまだ。実際の肉眼でみる月と、写真あるいはカメラで見る月の像とは、やはり雲泥の差がある。天体用の望遠鏡や、もっと性能の言いカメラを購入して、肉眼での感動を再現したいとは思う。しかし、基本は、まだ天文に関する知識、経験の習得だ。
運動、もうハードなスポーツは関心がない、無理である。けがをするのが落ち。徒歩によるウォーキング、一日一万歩、これも一日の流れ、寒さ暗さで八千歩が適当かと思う。
老いの暮らし、ほっておけば、どんどん老いる。65歳を高齢者のひとつの目印とすれば、まだまだ高齢者の初歩段階、これから止まることなく、老いは進む。病気せず、ボケず、日々健康をめざして、どう生き抜くか。
超高齢者社会に生きる。昔のように、高齢者を大事にはしてくれない。永年、培った経験や知識、全然、役に立たない。かえって現役世代の邪魔、足手まといになっている。
こども、現役そして高齢者・年寄りが共生できる社会をみんなで維持していくことが大事。それには、まず自分が社会の一員として、健康に生きること。
どっちにしても気合を入れて頑張ろう。でなければ、退場!