神社、なんとなく心落ち着く、鎮守の杜
数週間前、いつもの散歩道に、カラスが落ちていた。なぜかはしらない。暑さにやられて墜落か、住民に捕獲や環境保護されたか、確かに、カラスは不気味そして五月蠅い、やかましい。大きなきつい鳴声で、クヮークヮーと喚き散らす、わんこの煩い奴の鳴声とは比較にならない、騒々しく、いささか恐怖感する憶える。これを毎日ずっとやられると、腹立たしくなってくる。
当事者は、常に苛立ちと怒りを覚えている。遠くのものは、そんなことで怒らなくともと思う。私も、壁に犬のション便駆けやたばこのポイ捨て、自治会長時代の民生委員の麻雀婆々の独りやりたい放題には、激高したものだ、関係無くなれば、どうでもいいいし、犬ションやポイ捨ても、ようやく減った。カラスといつもい近所にいる人は、神の使いであれば、神様相手にも憤るのも当然だ。
ということで、日々の散歩には、少しドキドキしながら、カラスの鳴声を聴いていた。それが、その墜落、あるいは地上に這っていたカラス、いなくなったようで、もう一羽の相棒、しばらくは、寂しさと怒りと喪失感で、グワァーってことも、時々あった。
それが、最近、ない。
どうしたの?
ってわけにもいかない。
世の中って、そんなもの。
ちょっとさみしい。
犬は吠える、されどキャラバンはいく。
あるがまま、受け入れよう。
Let、It Be!
死ぬときは、死ぬ。
昔、漫才で、「別れ話、どうしよう」に、「別れなはれ。」
相談事、みんな自分では、結論は決めている。それを納得さえたいのだ。
誰かに、
カラスがいなくなって、寂しい反面、静かでいいとか、わけのわからんこと、言っている人間がいる。
それはそれで。
神の御こころのまま。
自然体で。
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