人生の空白って、それなぁに
「人生の空白」ってテーマ、いまになって思えば厳しい、苦しい思いがする。せっかくの一度きりの人生、空白って、あまりの言葉じゃないかと思う。しかたがないし、もう過ぎ去ったことでもある。思う出したくも、考えたくもない。そういう経験は、みんなお持ちだろう。
私の場合、大学に入学したものの、いろんな事情、状況から中退して、他の大学再受験を目指して勉強と言いながら、ボーっとしていただけの3年半、空白と言われれば、そうだろう。
しかし、今は、そうは思わない。別に有意義だったと、とか次の人生の大事なステップだったとか強く主張する気はない。青春の一ページだった。
しばらくして、ヘルマンヘッセの「車輪の下」、石川達三の「青春の蹉跌」など我が事のように読み耽ったこともあった。懐かしさする憶える。いま、その本、どうだったと聞かれて、恥ずかしながら、「さぁ~。」となってしまった。
知人がなにか病気などから、一週間、意識を失った。これは「空白」かもしれない。究極どうでもいいことなんだけど、そういってしまえば、すべてがそうなる。昨日までの眞子さま騒動、まるっきり、本来、二人のこと、しいて言えば秋篠宮さん一家や小室圭さんのお母さんや元カレなどの関係者の話で、天皇制がどうの、あれやこれやマスコミが騒ぐ問題ではない、問題とするなら人権問題だろう。中国みたいに報道管制すべきだ、そんな馬鹿なことは、日本は絶対、するべきではないし、ない。マスコミは、そんな根性はない。いざとなれば、みんな提灯持ち。
話が、すぐ横に飛ぶ。
私のひきこもり、それは、それで重大問題、ひきこもり、似たような若者を何度も見た。それに先輩?として介入、首を突っ込むかと真剣に悩んだこともあった。しかし、私自身は振り返れば、私自身が決めた結果なのだ。反省しない、時間は返らない、いったんエラーしても、それなりにがんばろう。
それしかない。グダグダ言っていても仕方のないこと。
済んだことは取り返せない、これからはこれから。
社会問題としての「ひきこもり」、また次の機会に投稿したい。
結論 「ひきこもり」は、空白ではない