他人の命、一寸先は闇
もちろん自分の生命も同じである。しかし、根本的に違う。他人の生き死には、自分から見える、感じる。嗚呼、あの人は亡くなった。
自分の死は、見えない、感じない、自分は、そのとき死んでいるから。
存在しない。
宗教や哲学がなんと言おうと、もはや存在しない、自分の脳や身体が生物的に死んだ以上、存在しない、だから見ることも感じることもない。
テレビで有名な歌手や俳優が死んだ。
谷村新司や財津一郎である。私より少し上、あるいはだいぶ上である。ずっとテレビで出ていた。超売れっ子である。
しばらくは追悼番組、時間をおいた特集番組もあるかもしれない。
それもつかの間、しだいに忘れられていくだろう。
そうしないと、後の人が育たない。
若い人は、どんどん成長していく。
近所で、ついこの間、生まれたばかりの赤子が幼児になり、立ち、歩き、そして喋っている。
自分自身、きがつけば古稀、
お暇したくない。
年寄りは年寄りで生きる、権利があろうとなかろうと、
弘法大師や豊臣秀吉は、62歳で死んだ。それぞれの想いで。
私は、それより一回り近く生きている、今後もずっと~
どうなるかわからない。
年下だった安部元総理、まだまだやりたいことあった、
突然、殺された。
いつどうなるかわからない。
持病の高血圧で脳梗塞で身体不自由になるか、コロナで肺炎死するか、
交通事故で轢かれて死ぬか、いろいろあるだろう。
人生ってなんなんだろう。
そう考えても仕方ない。
可能な範囲で遊べるだけ遊んだ、本も読んだ、いろいろやった。
でも、まだ当分、生きていたい。
生きてものが言えて、動ける間は、死ぬのはもったいない。
今日もJRで人身事故、飛び込みかなって。
まもなく深夜、真夜中、日々の自分を顧みよう。