月を観て、過去を思う
昨年の今頃、カメラを買って、花を撮るようになった。嵩じて、月を撮ることにも凝った。花月か、誰もが感動することが多い。人の命の儚さ、永いと思っていても、気が付けば、そろそろ終わり。
それぞれに、ものを思う。
文化も、日本は中国の影響を受けて、まだ2千年足らず、その中国も4千年か。どっちにしても、この宇宙、月が地球から離れて、なんと長いことか。人類が、月に行ったと騒いでいても、僅か数儒年、あっという間の夢の時間、いずれ消え去ることであろう。
人間が、どう文明や生存を維持していくか。その結末を見ることなく、私も消える。いる間は、人類が続いていてほしいものではある。
私のいる明石、たまたま様々な要因から、たまたま転勤で住んだ街。自宅を建築して永住することに決めた。気が付けば、同じ運命の人たちが、そんなに多いことか、つられて娘たちも明石市民となり、あげくは結婚して、孫も生まれた。
運命とは、すごいものである。それで、生き方が決まってしまう。もし、あのとき、あれがなければ、ああしたらとかで、いまこうなった、それがすべてである。神の差配か、遺伝子かゲノム編集とか、偶然なのか、初めから決まっているのか、いづれにせよ、超自然的な大きな力である。
この明石、数百年前、17世紀前半、明石藩主松平信之公、逝去した父の後を受けて藩主となり、いまもって神社に立て看板で記録されるほどの名君、荒地を耕し、水争いを調整し、永く民に感謝されている。
明石から転封し、幕府で老中まで進んだとか、封建制で固まったとはいえ、まだ戦国から半世紀、能力や意欲が活かされる時代であったのだろう、
いわゆる行くところまで行っている。
四国遍路で寺の歴史を見ると、各地でこの時期に、お寺が整備されている。時代的、運命的なものを感じる。
月を観て、花を見て、心をときめかす。
花は梅や桜だけではない。
日々、庭に咲いている花、慈しみつつ、夜空に輝く月や星を眺めたいものだ。
月見れば千々にものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど
もう冬、あと十日もすれば冬至が近い。過ぎれば、クリスマス、正月、新しい年が始まる。遠くないいつかは終わる我が人生、心豊かに、過ごしたいものだ。
願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃
いい和歌だ。
今宵の月も、物を想う。