自己紹介
3度の暗闇を経験した臆病な幼少期
幼少の頃から僕は目が良くない子どもでした。どのくらい悪いかというと…
当時寝室としていた部屋には窓がなく昼間でも灯りをつけないと真っ暗な場所。幼稚園に入る前くらいの頃、朝起きると部屋が真っ暗なので母親に「真っ暗で何も見えないから灯りつけて」とお願いすると、母親はびっくりして病院に連れて行くということが3度ほど。
手術的なことも3度経験しました。
その影響なのか、視力も弱いため、投げられたボールがキャッチできない。障害物が避けられない。夕方以降はクルマが来ていることが認識できず飛び出しをしてしまう等々。「この子はきっと何かの障害かある子なんだ」と両親からも思われていました。
視力が弱く視覚的な判断能力が劣るためにとにかく臆病で、例えば、高い所から飛び降りる(とはいえ、高さはせいぜい1メートル程度)という子どもながらの遊びでも、高さが計測できないため怖くて飛び降りられず周囲をシラけさせてしまい相手にされなくなることは日常的でした。
小学校に入学すると視力が悪いことがわかり、結局様々な問題が視力が悪いことに原因があったことが判明すると両親もほっとしていたようですが、臆病な性格は今でもかわりません。
企業に嫌われ続けバブル全盛期に自分だけ就活氷河期
僕が就活活動していた時代はまさにバブル全盛期時代でした。空前の好景気で世の中はどこか浮き足立っていて華やな時代でした。
就職活動も売り手市場で、1人が10社以上の内定をいただくことは決して珍しいことではなく、他社に面接に行かせないために研修という名のお小遣い付き旅行を内定者に与えるくらい、人材確保に企業もしのぎを削っていた時代の真っ只中、僕は20社以上の企業から「不採用」の通知を有り難くいただくことになっていました。
更に、学校推薦で筆記試験さえ合格できれば、最終である三次面接まで顔パスという好条件の企業であっても、まさかの「不採用」。
学校から10名程度その企業の就職試験に臨みましたが、なぜか僕だけが「不採用」。
「晴天の霹靂」とは、まさにこの事なんだと思った瞬間でした。
「不採用」の理由は態度が最悪だったこと…しかし全く身に覚えがありません。
一緒に就職試験を受験した同級生は皆すべり止め感覚でしたが、僕は本命中の本命だったので最善の準備で挑んでいました。にもかかわらず、「態度が最悪」って…
この一件で学校側からは「顔に泥を塗られた」と責められ、今後学校側は就職にかかわる資料の提供や推薦書の交付は一切しないことを告げられてしまいました。
今のようなインターネットのない時代。就職に関する情報は限られた方法でしか得られず、その後も1人で就職活動をしましたが、結局面接をした全ての会社から内定をもらうこともなく、僕の就職浪人が決定したのです。
その年の冬、日経平均株価は市場最高値を記録し、日本は狂喜乱舞していました。
これまで「努力しなければ欲しいものは得られない」と教わってきましたが、「努力が必ずしも報われるものではない」ことを身をもって知ることとなった21歳の頃でした。
人生を教えてくれたリアルなにわ金融道の世界
就活に失敗してから一年半後、結局希望の仕事に就くことはできず、たどり着いた会社は金融関係でした。
金融とは言っても銀行ではなく、中小企業向けの融資を行う、いわゆる「マチ金」と呼ばれている会社です。
きっかけは当時お世話になった人からのアドバイスでした。
全く興味がなく右も左もわからない世界。当然面接しても落とされてばかりでしたが、最後に行き着いたところが「スゴい」ところでした。
会社名は明かせませんが、その会社に入社が決まったことを知った恩人は「あんな厳しい所に入って大丈夫?」と心配していただくほど。
なぜなら、「あの会社に関わったら最後、骨の髄までしゃぶられて、ケツの毛まで抜かれる」「あの会社が関わった後はぺんぺん草の一本も生えてない」など昭和の名ゼリフのオンパレード。
当時の僕は全く知らなかったのですが、同業の間では、「情のかけらもない非情な金融屋」として有名だったのです。
まさに「なにわ金融道」の世界。実際、一週間の研修期間に教本として渡されたのはのは「なにわ金融道」のコミック本(笑)。これを読んでおけば間違いないとのことでした。
しかし、僕はその会社で本当に色々な事を教えてもらいました。
人に威圧的な態度で接するな!
偉そうに左ハンドルの車に乗るな!
スーツはグレーか紺色のみ。身なりはきちんとしろ!
頭をさげろ。礼節を忘れるな!
と、当時のマチ金のイメージとは一つ上をいく指導にびっくり。更に、
・金を貸すなら右肩上がりの儲かっている会社、金を借りる時は金が余っている時
・10万円を使えないやつに100万円は使えない
・お金に優劣はない、たとえ一円でも粗末に扱うな
等々、社長や次長からのありがたいお言葉は今でも忘れていません。
その金融屋には約15年ほど携わりましたが、有り難いことに500社以上の倒産会社の整理等にかかわらせていただき、その時の知識は唯一私が自身を持って自慢できるものなりました。
500社以上の倒産会社に関わってきたのに、転職した会社を倒産に追い込んだ40代
約15年勤めた金融業を退職後、小売業界に役付きで転職しました。その会社はまだスタートしたばかり。「この会社を自分の経験と知識を持って大きく発展させていこう!」と意気揚々と新天地での挑戦が始まりました。
しかし、なかなか思うように売上が伸びていきません。ある程度になると頭打ちになってしまい、その壁がどうしても突き破れないのです。
正直焦りました。「自分には金融業で得たスキルと経験があるから大丈夫」という信念をもって毎日のようにチャレンジし続けましたが、気づくと「絶対にやってはいけないこと」をしてしまい、「絶対にやらなくてはいけないこと」をまったくしていないのです。
不思議なものです。500社以上の倒産企業に関わり、倒産する企業、倒産しない企業の違いを見極めてきたはずだったのに、倒産する企業がどうしてもやってしまう行動をしなければ、上手くいくと確信していたのに、なぜか、倒産企業と同じ行動をしてしまうのです。
追い込まれれば追い込まれるほど、絶対に選択してはいけない方法を選んでしまいます。行ってはいけない道を進んでしまうのです。
万が一、進むべき道を間違えてしまったら、元の位置まで戻って地図を確認する必要があります。もし進むべき道を熟知しているのなら、誤った道からのリカバリーも可能でしょう。しかし、そうでない場合は、やはり一旦戻る必要があります。
でも、元に戻れなくなるのが人間の性と言えます。冷静になって一旦立ち止まり、そして戻る勇気さえあればリカバリーできたかもしれないのに、それができなかった為に残念ながら潰れて行った会社を沢山見てきました。
そして、自分自身も倒産の道を進む事になります。
思うように売上を伸ばす事ができず、その責任をとって役員報酬がカット。40代にもかかわらず手取りで月16万程度しか貰えませんでした。
また、何としてでも売上を伸ばしたいあまり、月200時間以上の時間外労働は当たり前の日々。このような状態では売上が伸びる事はなく、身体を壊し2週間の入院。退院後も会社に行くと震えが止まらず上手く言葉が出てこないような状態。
結局何も結果を残せないまま退職することになりました。
その1年半後に会社は閉鎖。閉鎖した理由は様々ですが、その一因は僕が結果を残せなかったこともあります。
ここで経験して分かった事、それは「人は行ってはいけない方向に行ってしまうもの」という事です。
成功する方法は人それぞれ違います。100人いたら100通りの成功方法があると言ってもよいでしょう。しかし、失敗はいくつかのパターンしかありません。そして、不思議なことに、そのいくつかしかない失敗パターンに多くの人がハマって行くのです。
やはり「負」のパワーって強力なんですね。よ〜く理解できました。
そして、もう一つ理解できたこと。それは「たとえ正しい方法を理解していても第三者がサポートしないと誤ってしまう」という事です。
だからコンサルタントやコーチの人が必要なんですね。プレイヤーとしては失敗してしまった僕ですが、金融業で得た知識とスキルで多くの人をサポートしていきたいと誓う40代後半なのでした。
現在、コネなし金なし借金ありの生活からノートパソコン1台でなんとかやっています。
会社から退いた後は暫く休養をしておりましたが、紆余曲折もあり、現在は「マーケティングライター」「動画クリエイター」の肩書きで活動をしています。
50代となり、残りの人生もあとどのくらいでしょうか?仕事の成果を残せないばかりか結婚もできなかった私にとって、子どもに何かを残し、そして託すことはできなくなってしまいました。
そのため、未来に向けて「何かを残す」という行動を本気で取り組まなければならないと考えています。
その「何か」はまだまだわかりません。しかし、人の心に残る「何か」を未来に残すために「創造する」仕事を選び、残りの人生を掛けていきたいと思っています。
50代で正味ゼロからのスタートは、正直苦労ばかりかもしれませんが、そこはお気楽な独り身。最悪、愛猫の餌代が稼げればなんとかなるとのんびりやっております。
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