2024年1月16日(火)「食器は料理のきもの」
今日の東京も晴れ。
朝方の最低気温は-1℃、日中の最高気温も6℃台迄しか上がらず。比較的寒い一日でした。
今日からは二十四節気・小寒の末項、七十二候の「雉始雊(きじはじめてなく)」(雉がはじめて鳴く時季)になってます。この時季だとまだ早いのかも知れませんが(温暖化の影響?)、立春過ぎになると鳴き始めるなんて言われてますかね。この間、猟友がキジを撃ってくれたそうなので、キジを捌いて食うのが楽しみです(笑)。さて、
昨日は「内臓料理・からすみ」についてお届けしましたが、本日は「食器は料理のきもの」についてお届けして行きたいと思います(冒頭画像はコチラから拝借しました)。
食器は料理のきもの。
このコトバは、陶芸家・漆芸家・画家にして書家、料理人・美食家でもあった北大路魯山人の名言と言われているモノです。ソレ誰だ?と思われたヒトは、マンガ「美味しんぼ」の海原雄山のモデルにもなった実在の人物だと言えばお分かりになりますかね(同マンガでは北大路魯山人の弟子であったとの設定みたいですが)。
実在の魯山人の方は数多くの芸術作品を残しただけでなく、「美食倶楽部」やら「星岡茶寮」等を経営・運営し、自ら作陶した器に盛り付けをして料理も提供していたコトもあったヒトだったようです。
その魯山人が色々な講演会や著作の中で言っているのが、料理と器の関係性について。
太古の昔の人々が料理を柏の葉っぱに乗せて食べていたコトから始まり、新聞紙にカレーを乗せて提供されたら誰しもが美味そうだとは思わないハナシ等、様々な比喩を用いて料理と器の関係性を語り、車の両輪だとか、長年連れ添った夫婦の例等にも例えつつその重要性が語られています(以下抜粋)。
「料理と食器について」
いうまでもなく、食器なくして料理は成立しない。太古は食べ物を柏の葉に載せて食ったということであるが、すでに柏の葉に載せたことが食器の必要を如実に物語っている。早い話がカレーライスという料理を新聞紙の上に載せて出されたら、おそらく誰も食おうとするものはあるまい。それはなぜであるか、いうまでもなく、新聞紙の上に載せられたカレーライスがいかにも醜悪なものに思われ、嫌らしい連想などが浮かぶからであるカレーライスそのものだけなら、これをきれいな皿に盛ろうと、新聞紙の上に載せようとも変わらないはずである。それにも拘らず、美しい皿に盛ったカレーライスは、これを喜んで食べ、新聞紙に載せられたカレーライスは見るだに悪寒を覚えて眉をひそめるのは、料理において食器がいかに重要な役目をするかを物語ってあまりあるといえるであろう。
もしかして、こういう感覚は一応は誰でも持っているのだが、美食家とか食通とかいうものになればなるほど、それが鋭くなる。ほんとうに物の味が分ってくればくるほど料理がやかましくなり、料理がやかましくなればなるほど、料理を盛る器についてもやかましくなる。これまた当然である。
しかるに、現代多くの専門家が料理を云々していながら、その食器について顧みるところがないのは、彼らが料理について見識がないか、ほんとうに料理というものが分っていないか、そのいずれかであろう。
以上のことが分ると、それに従って次々にいろいろなことが分ってくる。
料理をするものの立場からいえば、自分の料理はこういう食器に盛りたいとか、こういう食器を使う場合には、料理をこういうふうにせねばならぬとか、いわば、器を含めて全体としての料理を考えるから見識が広く高くなってくる。
(中略)
料理と食器とは相離れることのできない、いわば夫婦のごとき密接な関係がある。料理を舌の先に感ずる味だけとみるのは、まだ本当の料理が分らないからである。うまく物を食おうとすれば、料理に伴って、それに連れ添う食器を選ばねばならぬ。もちろん、ひいては料理を食う座敷も、床の間の飾りもすべてがこれに伴って来るが、そのもっとも密接なる食器について意を用いることが、まず、今日の料理家に望まねばならぬ第一項であろう。
よい料理とはなにか、よい食器とはなにか、これがただちに続く問題であるが、今日の一般はまだそれを問題にするまでにさえ至っていないのを遺憾とする。(昭和6年)
「生きた食器、死んだ食器について」
そこで食器のことになりますが、せっかく骨折ってつくった料理も、それを盛る器が死んだものでは、まったくどうにもなりません。料理がいくらよくても、容器が変な容器では、快感を得ることができません。私は生きた食器、死んだ食器ということをいっておりますが、料理を盛って、生きた感じがしますのと、なにもかも殺してしまう食器とがあります。茶人という者になりますと、向付に五千円、なにに五百円という具合に、よい器を欲します。それは生きた食器だからであります。食器が下らぬものでは料理まで生きませんから、料理と食器とが一致し、調和するように心がけるのであります。
その食器を選ぶということも、ただやかましくいうだけのことではなく、食器そのものを愛し、取り扱うことが楽しみであり、その食器をいたわりいたわり扱うというところに、料理との不二の契りが結ばれるのです。食器が楽しいものになれば、必然、料理が楽しいものになるのです。それはあたかも、車の車輪のようなものでありましょう。(昭和8年)
とまぁ、こんな風に偉大なる北大路魯山人先生は語っておられるのであります。
翻って我が身。
自分には、陶芸品やら美術品に対する審美眼も無ければ、その手のセンスも持ち合わせてはおりませぬ。が、料理を引き立てる為に良い器があれば、ヘタな料理であってもそりゃあ美味く見えるだろうし、ナニやらスバらしいモノにもみえるだろうな、とは思います。
なので、お店を開く際には出来るだけ良い器を揃えたいとは思うものの、カタチあるモノはいつか壊れるのが盛者必衰(?)のコトワリであって、皿は割れる(実際、コレ迄の修行中の仕込み時や皿洗い時に何枚の皿を割ったコトか…(泣))。
いっそのコト、IKEAや無印良品等の無地の白い皿ばかりで揃えちゃう、と言う手も無いでもありませんが、ソレだと貧弱な料理をバエさせるコトは出来無さそうなので、コレも無しか。
とは言え、高い食器を揃えるなんてコトは出来ないし、する必要も無い(必要はあるのだろうけれど)。であれば、魯山人の如く自分で作る料理には自分が作った器で供すれば良いではないか、とは多少思うものの、その時間は取れない(陶芸には以前から関心は持っているのですが…)。自分よりも先にムスメが陶芸を始めてて、もう5年位やっているので、彼女に希望を伝えて当面の食器類を作って貰うと言うのも手かも知れませんね(って、まだシロウトの域を出ていないので、手作りの食器であれば味わいはあるのだろうけれども、不揃いの食器は収納に難アリかな?)。
とある食とサカナに大変お詳しいお方と話していた際に、「民芸品店等に行けば骨董品と迄言わないものの、100年程度の古い普段使いのお皿が割とお値打ちに買うコトが出来るだろうから、探してみたら?」とのアドバイスを受けたので、ソレもアリかな?とも考えています。
また、実家にもその類の食器類が幾つかあったと思われるので、その辺りも精査せねばならんな、と考えています。
まぁ、「食器は料理のきもの」との考え方は意識しつつ、予算や自身の出そうとしている料理の内容、現実的な選択が出来れば良いな、と思います。
ナニか良いアイデア等あれば、ご教示戴ければと思います。
明日は「醗酵飲料(焼酎)・吉兆宝山の初留無濾過(2023年謹製)」をお届けする予定です。