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100日の「継ぎ足しおでん」、生命の食事

2022年1月24日から「継ぎ足しおでん」を始めた。毎日、2回火を入れてコトらせるのである。
静岡ローカルの調理だとある方のnoteで読んだ。その後、色々と調べていく内に、この調理の中にこそ私達がこの50年で失ったものが隠されているのではないかと思い始めた。
「賞味期限」や「衛生的」という事を考える連中は「駄目だ」と言うだろう。実際、妻はそばに寄ろうとさえしない。味をみてもらいたいのだが「お願いします、勘弁してください」と言う。

一ヶ月くらい前に煮豆を加えた、紅いのは赤唐からし、糸コンも見える。すき焼きの残りである。

いくら煮直すと言っても限度がある。冷蔵庫に入れたほうがいい。と思うであろう。実際僕もそう思っていた。
冷蔵庫は、その瞬間から食べ物の変化(代謝・発酵・腐敗)を止める。鍋を煮直すことで味が進み違った風景が見えてくる。発酵食品の一類型のように思える。
毎日、何かを加えて、少なくなったら水や味噌汁を差す。ますますうまくなっていくではないか。年取って、料理を作れなくなったらこれはいいと思う。

茹で卵は1っヶ月は経っている。サラミのスライスは先月一杯やった時の残り。黒いのは多分ピータンのかけら。キミはとけてしまった。

しかし、考えてみれば、カレーも翌日が美味い、すき焼きなども余ったものにネギを入れて煮直して牛丼にしたりする。残った味噌汁も捨てはしない。煮直すと味が美味しくなる。
童話や昔話の世界では「鍋」が登場することも多い。老婆が様々なモノを鍋に入れて煮込む。日本の剣豪物では囲炉裏に鍋がかかっている。

冷蔵庫・長距離輸送のない時代の食事は、世界の珍味を食べることが出来なかったが、逆に豊かだった。季節の移り変わりに従って様々な食材が現れ、それぞれの家庭で異なった味付けや流儀が有り、互いに「お裾分け」し合ったのだ。その時代は、『介護・教育・医療・政治、誕生と死別』全て、家族という具体的な人のつながりを通して現れていたのだ。
食材が「生命」を失っってから「短い時間・距離」で食べられた。「鶏を飼って卵を食べて、やがて締めて食べる」父の世代は当たり前にしていたことである。

人参レンコン大根ゴボウのような根菜はウエルカムである。不思議なものになていく。素材の味が抜けて、鍋の味になっていくのである。何と言っていいのだろうか。

「生命」とは、「細胞」の内側に満ちている「タンパク・脂質」の立体構造が維持された状態を意味する。工業的な「乾燥・濃縮・抽出」のでは失われるのだ。
果物にしても「もぎたて」を絞って飲むものと「濃縮還元」ではまったく違う。水分を飛ばして濃縮することで輸送コストは下げられるであるが、その水分が有ることで
400%ー>100%のモノを100%ジュースであるなどという。詐欺としか言いようがない。

手羽先が見える。多分先日唐揚げにした手羽先である、身が離れ骨のズイまで食べることが出来る。骨関係の疾患は「分析される栄養素(カルシュウム)」が不足するのではない。代謝に必要な様々な「(立体構造を維持した)タンパク・脂質」が食事から取れなくなっているのである。いくら「栄養素」を採っていても「病因の無い症状だけの疾患」はなくなることはない。

その時代は旬ものしかなかっただろうし、地元の農家から買う以外に食材は流通していなかった。お店にオカズなど売っていなかった。
同時に「生活習慣病」などなかった。

同時に加熱のコストが高かった時代(カマドの時代)には継ぎ足しの調理方法は当たり前だったのではないだろうか?

「政治的に正しい医学」では『私たちの身体の中は「無菌」で「病原菌」が入り込んで病気になる。』と言う固い信念がある。だから、食べ物や食器を必死になって殺菌する。
彼らの信念は昨今の「微生物(マイクロバイオーム)学」の観察する世界とは相容れない。

空気中には常に「腐敗菌(レンサ球菌・ブドウ球菌)」が降り注いでいる。生肉を置いておくと彼らが分解(生命のリサイクル)してくれる。私達が呼吸すると、肺胞(片肺1億個の小さな粘膜の泡)中に充満して腐敗させようとする。私達は「腐敗菌(僕はこの表現嫌い)」と共に生きてきたのだ。
肺胞の粘膜側では、免疫系が外部から来た「マイクロバイオーム」とダンスして身体の海に誘う。貪食された「「腐敗菌(レンサ球菌・ブドウ球菌)」は生命の要素として身体に使われる。輪廻転生とは単に弱肉強食の食物連鎖を言うのではない。
その生きる環境に存在する生命が「身体というコロニー」でダンスするのだ。細かい部品に代謝されて別なマイクロバイオームの一部となる。
ドーキンスは私達はDNA(ミーム)の乗り物だと言った。1960年代に科学の聖堂入りしたDNAドグマに縛られているのが残念である。
僕は『「身体というコロニー」はマイクロバイオームの乗り物なのだ』と考える。DNAは細胞の外の世界を受け取り、世界を変える代謝物を放つプロトコルである。
インターネットの世界は全体の設計図を持たない。デバイスが互いに他を知らず世界を作っている。身体も環境に適応してあらゆる形を取るのだ。

受精卵とDNAを共通にするマイクロバイオームとそれ以外のマイクロバイオームは互いに他の存在を知らない。しかし、外界に対しての適応方法は知っているのである。


鍋は、まさに生命である。様々な具材が入り、少しずつ溶け合って味を作る。これは驚きである。
手羽先やロース肉、鹿のもも肉、茹で卵、サラミ、モツ、レバー何でも入る。先日はトマトの缶詰を入れた。赤唐辛子はピリッとさせるが数日で味に和む。ハンバーグやカツの余ったもの、もちろん練り物や人参、レンコン、タケノコ、味噌汁が余ればそれも入れる。

大事なのはスープである。コクが有り、比類すべきものはない。

100日間中身は変わりながら同じ姿を見せる。
食事とは「生命の潮流(ゆく川の流れ)」なのだ。
お店で売られている弁当はフードキャピタリストに富を与え、
患者に苦痛とよく効く薬を買わせる。
医療キャピタリストは大笑いである。トクホも売れるしな。
南無阿弥陀仏


#継ぎ足しおでん
#継ぎ足しオデン

#マイクロバイオーム

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幸運な病のレシピ
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