100日の「継ぎ足しおでん」、生命の食事
2022年1月24日から「継ぎ足しおでん」を始めた。毎日、2回火を入れてコトらせるのである。
静岡ローカルの調理だとある方のnoteで読んだ。その後、色々と調べていく内に、この調理の中にこそ私達がこの50年で失ったものが隠されているのではないかと思い始めた。
「賞味期限」や「衛生的」という事を考える連中は「駄目だ」と言うだろう。実際、妻はそばに寄ろうとさえしない。味をみてもらいたいのだが「お願いします、勘弁してください」と言う。
しかし、考えてみれば、カレーも翌日が美味い、すき焼きなども余ったものにネギを入れて煮直して牛丼にしたりする。残った味噌汁も捨てはしない。煮直すと味が美味しくなる。
童話や昔話の世界では「鍋」が登場することも多い。老婆が様々なモノを鍋に入れて煮込む。日本の剣豪物では囲炉裏に鍋がかかっている。
冷蔵庫・長距離輸送のない時代の食事は、世界の珍味を食べることが出来なかったが、逆に豊かだった。季節の移り変わりに従って様々な食材が現れ、それぞれの家庭で異なった味付けや流儀が有り、互いに「お裾分け」し合ったのだ。その時代は、『介護・教育・医療・政治、誕生と死別』全て、家族という具体的な人のつながりを通して現れていたのだ。
食材が「生命」を失っってから「短い時間・距離」で食べられた。「鶏を飼って卵を食べて、やがて締めて食べる」父の世代は当たり前にしていたことである。
「生命」とは、「細胞」の内側に満ちている「タンパク・脂質」の立体構造が維持された状態を意味する。工業的な「乾燥・濃縮・抽出」のでは失われるのだ。
果物にしても「もぎたて」を絞って飲むものと「濃縮還元」ではまったく違う。水分を飛ばして濃縮することで輸送コストは下げられるであるが、その水分が有ることで
400%ー>100%のモノを100%ジュースであるなどという。詐欺としか言いようがない。
その時代は旬ものしかなかっただろうし、地元の農家から買う以外に食材は流通していなかった。お店にオカズなど売っていなかった。
同時に「生活習慣病」などなかった。
同時に加熱のコストが高かった時代(カマドの時代)には継ぎ足しの調理方法は当たり前だったのではないだろうか?
「政治的に正しい医学」では『私たちの身体の中は「無菌」で「病原菌」が入り込んで病気になる。』と言う固い信念がある。だから、食べ物や食器を必死になって殺菌する。
彼らの信念は昨今の「微生物(マイクロバイオーム)学」の観察する世界とは相容れない。
鍋は、まさに生命である。様々な具材が入り、少しずつ溶け合って味を作る。これは驚きである。
手羽先やロース肉、鹿のもも肉、茹で卵、サラミ、モツ、レバー何でも入る。先日はトマトの缶詰を入れた。赤唐辛子はピリッとさせるが数日で味に和む。ハンバーグやカツの余ったもの、もちろん練り物や人参、レンコン、タケノコ、味噌汁が余ればそれも入れる。
大事なのはスープである。コクが有り、比類すべきものはない。