世界のウイルス学者の敵、アンデシュ・テグネルさんってカッコいい
いやー面白いねえ、「スエーデンモデル」と言われるコロナウイルスに対しての対応が称賛されている。僕がよく見に行く医療関係者のsiteでもその手の記事を見かけるようになった。
なにせ、100年前のスペイン風邪(インフルエンザ)もまだ終焉していない(インフルエンザで毎年たくさん死んでいる)のだから、コロナが終焉するはずがない(笑)。
ワクチン売りたい人はこれ幸いと商売できると思ったのだろうけど、そもそもワクチンでウイルスを消すのは無理筋である。
コロナに分岐したウイルスは自然界にたくさん生きているから、また何かの機会に人に適応したウイルスは分岐して、「ヒトというコロニー」に生きようとするだろう(「子宮頸がん」なども同じである)。
パンデミックというのは、自然を過破壊したタタリなどではない。マイクロバイオームの当たり前の姿である。症状を伴わない多くのパンデミックが常に起こっているのだ(笑)。
神の意図を星の運行から読み取ることが可能と信じられていた時代と大差ない。占星術の昔から、専門家は為政者の生贄として機能しているのだ。
どうマスコミや専門家が言い訳するか楽しみですねえ。
僕らは、この騒動を忘れてはならない。税金を使って大儲けした連中がいるということを、売上が消えて追い込まれた人達がいるという事を。生命を理解していない専門家がいるとうことを。
忘れるから歴史は繰り返す。正確に言えば、忘れたのだから繰り返したことにはならない。
金魚は金魚鉢を一周すると、すべての風景を忘れるという。金魚鉢は金魚の脳みそにとっては「無限に広い世界」なのだ。僕はもう少し広い世界に生きていきたい。
一つ面白かったのは「集団免疫」と言う言葉をスエーデンは使っていないという。僕もそれで安心した。免疫というのは「何らかの疾患」が発生するかどうかであって、感染しているかどうかとは関係ないことだ。そして個人が単位でしか無いのでこういう言葉は自己矛盾になる。
使われてないことを明言しているのを聞いて嬉しかった。
ちょっと面白かったのは「痛風の患者」の死亡率が高いという記事を見たときである。「糖尿」は言われていたが、痛風もそうであると読んで「幸運な病のレシピ」的だと思った。高血圧とか高脂血なども解析が進めば同じであろう。ますます検査値を下げる薬を売ろうとするだろうが、馬鹿らしいことである。検査値とコロナの感染との因果関係が有るというのは相当アクロバチックな理屈が必要だ。
なにせ大量の検査値が個人に紐付けされている。そして空論を作るのが専門家の飯の種だ。僕は検査値の異常を生むような食事の傾向は、自己免疫疾患を生むと考えている。だから検査値を下げる薬を飲んでも意味はない。
検査値の異常とコロナが死因となる事は、相関関係は有るが因果関係はない(笑)。検査値ではなく、食事こそが重要である。
肺炎の重篤化というのは自己免疫疾患だから、明らかに膠原病や難病との類否を考えるべきだ。
徹底的に、老人を隔離することだ。残念ながら、多くの老人にとってはコロナに対応する時間は少ない。できるだけ早くに感染しておくか、残りの人生を感染しないで生きるかである。
ゼロディアタックは時間とともに落ち着いていく。インフルエンザが社会の中に定着したようにコロナも定着する。
ウイルス学は新しい生命感を描いている。ソッチのほうが面白い。
これからも繰り返されるだろう。インフルエンザと同じで、患者を隔離することは不可能なのだ。エボラの様な感染症とは少し違う。エイズでさえこの社会に溶け込んでいるではないか。
やがてコロナは日常に成り、老人の死に方の一つの道筋になる。
マスクもソーシャルディスタンスも意味のない多くの物は忘れ去られる。
中国で辮髪が忘れられ、日本でちょんまげが忘れられたように。どんな作法もそれが出来た時はそれなりの意味を持っている。
そういえば、イギリスの法廷ではカツラ付けている人がいるがあれは良いことが有るのかねえ。ヘルメットの一種なのかしら。
絵の練習を始めることにしたのだが、なかなか難しい。昔、友人の美術の先生に習ったスケッチブックがあったなあ。確かデッサンの本を昔買ったことが有る。子供に絵を教えたかったから、独学したのだ。もう10年近く前の話だ。また始めようか、60の手習いである。
厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。