仁義なき「継ぎ足しオデン」:鍋(生命のメルティング・ポット)の文化に関しての小論
同じ「オデン」と言う名前で呼ばれても、東京で食べていたオデンとは、まったく異なった食べ物である。今の所、静岡以南がその生息地ではないかと思われるが、今後の詳しい調査が待たれる(笑)。
「継ぎ足し」と言う料理方法
オデンという名称はついているが、非常に濃厚で旨味の強い味に育っていく。「継ぎ足し」と言う料理方法は世界中に有るのではないかと考えている。たしかに何時間も煮たスープというのはどこかお婆ちゃんがコトコトとやっていそうである。
かつて囲炉裏文化が存在した日本には「自在鉤」というものがあった。田舎の大きんな家に行くとあったものである。ガッチリとした竹の節を抜いて吊るすフックを通して、止める木がついている。
北欧では暖炉であろう。暖炉の中にお婆ちゃんが座っているような絵画を見たことがある。
父の実家の囲炉裏にあったのを覚えている。
「カマドの時代」は火を使うというのは恐ろしくコストが高い。薪を乾かして割って使う。風呂や調理、暖房全てに使われたのだ。
今の尺度で当時の生活を想像するのは間違いである。
家の気密性が高くなると当然、生木を焼くわけにはいかない。囲炉裏も、炭の普及に従って掘りごたつになり電気コタツが席巻する。僕が小学校のときは石炭ストーブで始まりガスストーブに変わり、今ではエアコンである。
使い安いものが生活を満たしていく。
食事は生活の一部であり、社会のあり方から切り離すことが出来ない。
三世代の家族の内に維持されてきた「食事作り」という伝統芸能「郷土料理」と言う形で商品化されて、形は残っている。しかし売り物としての民芸品のようなものである。利を求めるキャピタリストはコスト減を望み、ペカペカの安っぽいものが売られていくのである。
しかし、その本質は既に失われたのだ。食事は毎日の生活に埋め込まれて初めて意味があるのだ。
ボーンブロスと言う調理方法を友人が好んで使う。僕も骨ごとというのは重要だと考えている。
魚を骨ごと煮込むと言うのは重要な調理方法である。一物全体食と言うメソッドは実に奥が深い。
おそらく私達は食物連鎖(食事のプロセス)から「複雑なタンパク・脂質を立体構造ごと」手に入れている。
自分の中に製造する代謝系があってもコスト安いならばアウトソーシングるるのは生命の掟である。
今やその大事な「生命(立体構造を維持した「タンパク・脂質」)」が食事から失われたのである。商売人はコストを嫌う。
この50年で私達を苦しめている「病因の無い症状だけの病」は食事に原因だある。しかし、食事の何が悪いかは分からない。
多くの妄言が乱れ飛ぶが、調理を作るプロセスに注目したものはない。
年取った人の食事を分析する栄養学者も多いが、多くの場合は食材の中の分析可能な「栄養素」に脚光を向ける。
サプリ・トクホ業界に売りつけたいからである。
「幸運な病のレシピ」は「伝統的な調理方法」をリスペクトして、精神を受け継ごうとしている。
いつも母のことを思い出す。
生命(「タンパク・脂質の立体構造」を維持した調理」)の鍋
僕の料理メソッドは『食材の中の「タンパク・脂質の立体構造」を維持したままの調理』と言うことを重視している。
高温長時間はタンパク質の活性を壊すのである。アミノ酸の配列はそのままで立体構造を破壊するのだ。つまり、「圧力鍋・電子レンジ」の調理は生命を壊しているのだ。昨今時短料理には電子レンジが多く使われる。なによりも不味いのである。
同様に「高温殺菌牛乳」の様な商品を好まない。あまり「高い牛乳」は飲まないが...…。
65度の加熱を30分することで殺菌は完了したとお保証される。僕のベーコンは肉の中心温度が65度以上で30分を超えた所で完了である。市販されているベーコンはもっと高温で短時間で作られる。だから僕のベーコンは美味いのである。
先日、noteでオデンについての記載を読ませていただいた。大変面白かった。愛知の方で、静岡のお隣である。
そもそも始まったのは
こちらの小倉さんの記事を読んでからだ。
大阪に行くと「関東炊き」と呼ばれて汁が真黒である。(半年と少し大阪にいたが)新潟に帰ってきてから「関東炊き」のお店があったので、初めて知った。
東京で修行時代(ソフトの仕事のですよ)は、オデンを「そのように奥深いもの」とは考えてもいなかった。
おそらく「ウドンスキ」などとも繋がっていくのだろうが、やはり都会である。洗練されておる。関東のオデンも同じ様に洗練されているのだ。