2022年のタケノコ 5/5:控えめ13本、お裾分けの経済学
あとお二人「生」をお持ちしたい人がいたので、掘りに行った。朝5:30に出発して7時に帰ってきた。
この時期、山菜は通貨として人々の間を橋渡しする。
人と人とは金では買えない「縁」で結びつく。
地中を根が這ってタケノコが顔を出すように、ヒトは一人で生まれてくるわけではない。残念ながら「生命の連鎖=根を持った生活」を私達は失って久しい。
Dさんは毎年山菜を採っては持ってきてくれる。先日のコシアブラとタラの芽は美味しかった。
Dさんには3本お裾分けした。後でお電話を頂いて、蕨が出たら持ってきてくださるそうである。
もう一方は妻方の親戚の方である。ウルイと蕗を頂いたお返しである。
母は、いつも笹団子を作ってはお水あげやお土産にして持っていった。金で買えないものの価値を信じていたのだ。
友人の笑顔を見て、自分も力づけられて、共に生きたのだ。
今や金で買えないものは少ない。「愛や憎しみ」さえも金で買える。
しかし、年老いていく自分は、金ではどうにもならない。
共に励まし合いながら生きていくコミュニティは金では買えない。
「人情」はサービス(金を対価とする物品や労務)ではない。
いくら金で「施しや募金」をしても、それはその人の時間を使ったものではないのだ。家族が深く苦しんでいる時に医師を紹介してはならない。もはや、それはブローカーである。
共に苦しんで、人生に向かい合ってこそ家族なのだ。やがて自分の運命である。
高度医療やらエイジング医学やら医者は嘘ばかり並べ立てる。今までに死ななかった人間はいない。人生100歳時代などと言うが、管だらけになって薬をもられパクパクしながら年金ATMとなって介護施設で暮らすのがそんなに望みなのか。
僕の食事メソッドのアウトカムは「ピンコロな人生の終わり」だ。
医者にかからないで、検査値で病気にさせられないで生きる道である。
「あたわり」を信じて死を迎え入れることだ。向こうには懐かしい笑顔が並んでいる。自分もその一人となる事を忘れないことである。
目に見えないもの、証明できないもの(=宗教)には意味がある。