犬の「糞食」を病気と思う「擬人化」で自分を正常と思う意識
ヒトは3歳位から「言語活動」を行う。ピンガーさんは3歳時の頃、脳に「言語」を学ぶ器官が生まれるという。その器官は外部の環境を受け取って「意識」と私達が呼ぶ「層=行動を律するコード」を作る。
「衛生観念」と私達が呼ぶ「コード」はそこに組み込まれる。
ウンコが汚い、オシッコは飲むものではない、セックスは隠すものだ、と言う下位のコード、それを根拠ずける『生活の形・宗教・伝統・家族・社会』全ては繋がっている。
「糞食」というのは犬を始めとして色々な動物が「ウンコ」を食べる行為だ。ヒトの場合は「糞尿愛好症(スカトロ)」などという。病気扱いなのだ(笑)。考えてみれば、セックスにおいてはあんなに「なめたりしゃぶったり」するではないか。少なくとも僕はする。
言語活動以前の「生命」のコロニーとしてヒトは振る舞うのだ。
「ウンコ」てなんだろうか?
『「ウンコ」っていうのは「血液」なのだ』ということはあまり意識されない。食べ物から「栄養素」を抜き出したのカスが排出されているものと思いがちである。食べ物をバラバラにすることが消化だと考えられているのだ。
消化の仕組み
胃液で腸自身が消化されないのは血液を材料に作られた胆汁が酸性で在る胃液を中和するからである。
「腸肝循環」と言う仕組みは「肝」で血液(赤血球以外)が代謝されて作られる。タンパクと脂質の立体的なジグゾーな玉(コルステロールやサイトカインと言われる代謝物である)。そして胆汁酸は消化の主体でもある。最近の便秘薬は胆汁酸の分泌に作用するという。恐ろしいことだ。
この腸肝循環という仕組みは胆汁酸に含まれている「免疫系の血液」が食事の中に含まれている「生命:立体構造を維持したタンパク・脂質」と絡まり合って、腸から受け入れられる。
これを延長して考えると、身体というコロニーに外部の『生命』が取り込まれる大事な仕組みなのだ。
消化というのは外部の「生命:立体構造を維持したタンパク・脂質」を免疫系が「貪食してそのコロニーに問題のある生命を非活性化」して受け入れる。これが「獲得免疫」の役割なのだ。バラバラに元素まで分解された「栄養素」が腸から吸収されるのではないのだ。
そして、小腸では「選択透過」を行う。それが上手く行かないから様々な問題が起こる。リキーガットと言われる原因をグルテンに求めても無駄である。それは原因ではなく結果なのだ。
食事由来の『生命:立体構造を持ったタンパク・脂質』が足りないということは「精度の高いネジ」が足りない工場の様なものだ。
出来上がる身体は至るところでガタピシになる。そしてそれはそれぞれのコロニーで出方が違う。
腸に出るタイプ、内臓の臓器に出る場合、血管が全面的にやられる場合、皮膚が破れやすくなる、肺胞という粘膜が炎症を起こす、歯周病に出たり、脳の機能不全をもたらす髄膜の不良、見つけられる場所と治療法で違った病気に医学は分類する。毎日のように「難病」の数は増える。
破壊的治療は「臨床の患者と家族・臨床の医療関係者」に苦しみを与え医療キャピタリストに冨を与える。
取り込まれなかった「生命」は血液と絡み合いながら腸の中でダンスするのだ(昨今の腸内フローラ崇拝は気に入らないが.....)。腸肝循環においては、脂質を排出する機能も大きい(肉食獣に特徴的)。
つまり、「ウンコ」は「生命」にあふれているのだ。
なぜ犬は自分の「ウンコ」食べるのか?
ドッグフードより、自分の「うんち」の方が美味しいからなのだ。
犬は「衛生観念」など持たない。もちろん3歳以下の子供も何も汚いなどとは思わない。
小さい頃、冬の小道で野良犬が糞食していたことをもい出す。ウサギなどにおいては普通の食事なのではないかと考えている方々もいる。確かに牛のルーメンのあり方を考えれば、それも当たりであろう。
肥溜めで「生命」は畑にまかれ植物というコロニーに入り込んでいく。そこでもマイクロバイオームが一枚噛んでいるのだ。
飼い主は、犬が自分のウンコを食べるのを病気かという。
病気と言って異常だと考える前に、その現象が何を意味しているのかということである。
僕が作るように食事を素材から作ってあげて見ればはっきりするだろう。
犬たちは、ポリポリの乾燥した「栄養満点」の食事よりウンコのほうが良いと言っているのだ。ドックフードを食べたがらないと相談をする飼い主も多いと聞く。美味しくないから食べないのだ。
しかし、ポリポリのご飯しか用意できないのは仕方ない。忙しいからポリポリのご飯しか用意できないのだ。社会の問題である。
給食ハラスメントという言葉があるがヒトも同じである。
飼い主も同じ様なものを食べている。
見た目は綺麗だが、センターキッチンでバイキンも食べたがらない賞味期限が長ーくて捨てる直前には半額になる『餌』のような食事。
やがて来る様々な「病因のない症状」終わることのない投薬と我慢大会のような破壊的な治療。医者や栄養学者は金を貰えればいくらでも「エビデンス」をひねくりだす。問題はなぜそんな物を信じてしまうかである。
食事にとって大事なのは皿の上に乗っている食材の種類ではない。
素材が生きていた時点から料理になる間で(伝統的な知恵にそった)適切な調理方法を経ているかである。
私達は伝統の中で様々な調理方法を学んできた。それは「家族」という具体的な場所を通じてて伝えられててきたのだ。
見事に消し飛んでしまったが....…。
しかし、僕は信じている。
いくら社会が変わり、商売人に取り囲まれようとも、家族を大事に思う心はいずれ自分を救う。
商売人が利を求めて自分で食べられないようなものを売りつけようが、いずれ自分もその奸計に落ちるのである。
食事を作ることは価値がある。
厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。