2022年のタケノコ 5/8:「締めの21本」 生命の森の話 合計:113本
明日、妻が友人にお裾分けしたいと言うのでタケノコを取りに行った。暖かくなると終わりである。芽を出したと思うと一日で身長くらいにまで伸びる。凄まじいものである。
ここに来ると自分にも根が繋がっていると感じる。僕はタケノコの一部なのだ。タケノコ掘りはテーマパーク等より遥かに楽しい。
時期によって多く生えるところと生えない地域がある。
地下の枝ぶりがわかる。
身体の内側で血管がのびる様に、竹にとって根を伸ばす何らかの刺激があるのであろう。そして土地の肥工合で太さは変わる。
細胞が環境に適応して形を変えるように竹生える場所で姿を変える。
水の吸い上げの良い青竹があり、老人であろう茶色い竹が見える。やがて倒れ土を肥やす。この風景を見ると、2年前に父を苦しめて殺したことを思い出す。僕が悪かったのだ。ようやく、言葉にできるようになった。
医学という権威は病を直さない。患者の苦しみが富の元なのである。様子を見せに来いと言われるままに父を病院に連れていき、衰弱は進んだ。医者はCTを眺めておしまいである。大事なアドバイスは何も出来ないのだ。
父と一緒に掘りに来たものだ。20年前はポコポコ掘ったものだ。僕より多く掘ったものである。徐々に父は掘らなくなり、1−2本掘っては一服初めていたものだ。亡くなる前年は一緒に来なかった。
風で竹林が揺れると独特の音がする。時折鋭い「パキーン」というような音も聞こえる。暖かくなりだした山は生命の音でいっぱいである。掘り始めた頃は山桜の花びらが散っていた。少し離れた山の中に大きな山桜がある。
今は木々の緑が光を遮っている。
山の中奥の方は土が肥えているので太いタケノコになる。竹が折れていたり、葉が積み重なりながら生命が始まっていくのだ。
「葉」を一つの「生命のコロニー」だと考えている。幹は一つの家族で、そこに毎年、「葉」が生まれ落ちて土を経由して新たな幹を作る。
地中に住む「蟲」は幹の内をつたい「葉」にたどり着きその一部となって新たな生を始める。
やがて時が来ると葉は落ちる。死は変わっていく世界を生命に伝えるためにあるのだ。
DNAが全体の設計図だと考えるとこのような生命のあり方は説明できない。DNAは細胞のプロトコルであり、外部に対しての反応の「経典」である。
プロトコルは世界の変化に従って常に変わっていく(生命のアップデート)。私達は今も進化(適応)し続けているのだ。
環境に適応して新たに変わる為に今を記述するのである。それが「生」の意味である。
父が亡くなる3-4年前くらいだったろうか、ガレージで皮を剥いていたときのことだ。皮が結構重くて、山に戻すのが大変だということを話していたら、父が「山で剥いたら良いんじゃないか」という、びっくりした。
年取ると、若い頃のように記憶力や反射力はなくなる。認知症と呼んで施設に放り込みたいのはわかるがその病は「病因」がなく症状だけである。治療は脳を壊すほかない。
人はみなまったく違ったものが見えている。それを理解する事こそが大事。
家族という絆は無条件で信じること。
昨今の統合失調症という「家族の病」は患者本人の訴えよりも医師ゃの金儲けを信じるということである。よく効く薬は患者の脳を壊す。世界は私達を壊そうとする、家族というシェルターは互いに信じ合い守り合うのだ。
もはや、残り少なくなってしまったが。
帰る途中に沢山の生命が伸びようとしている。もう重くて取りたくなかったので見のがしてやった。