生命の鎖、オロシ蕎麦、サンドイッチ、トンカツ、れんこん天、芋天、
揚げ物の作り方が変わった。というか、色々なパターンに対応できるようになってきたのである。かつては一回に大きなバッドに一杯作る事が多かった。大きな天ぷら鍋でドカンと揚げるのである。
確かに一個当たりの効率は良いかもしれないが、当然のことながら、食べるその時に作ったほうが美味しい。
父の食事を毎日作っているとき、父の時間に合わせて揚げ物や料理を作っていた。そして少し後から子供が帰ってきて、妻と食事をしていた。父は4時位には腹が減ったと来ては一杯やりだす、僕は毎日一緒に食べていた。
料理作りを始めた当時、「厨房仕事の効率」を考えていた。いかに栄養満点のものを短い時間で作るかを考えていた。電子レンジやら圧力鍋やら「分子栄養学:オーソモレキュラー」の信者であった。
1980年代「ガンや成人病、加齢やボケ」と呼ばれる老人を襲う恐ろしい災厄を「最新の医学」が撃退してくれるという幻想を信じ込んでいたのだ。
しかし、間違えであった。「政治的に正しい栄養学」が私達を殺していたのである。本当に私達を苦しめているのは、母が学んでいた伝統的な価値を貶める「医学」という「商売」だったのである。
効率など考える必要はなかったのだ。食事に対してのリスペクトこそが大事なことなのだ。
小回りを利かせ、一人一人の時間に合わせて揚げれば良いのである。味噌汁も一回に大量に作るのではなかく一日2回作るようになった。
傲慢であったのだ(今よりも随分....…)。食事というのは、「作ってやる」のではなく「食べていただく」ものである。食べる側からしても、「食べてやる」のでもない。食べ物さんに申し訳ない。
食べ手も造り手も「食物連鎖の一つの鎖」なのだ。そして身体の至るところで生きる「マイクロバイオーム」も一つの鎖である。最も重要なことは、そこで終わるわけではないということである。この身体は長い連鎖の一つのリングでしかない。
弱いところ壊れているところから鎖はちぎれていく。僕の大好きな丸元淑生先生は「生命の鎖:1992年」と言う著作の中で「微量ミネラルの重要性」を論じているが、それ以上に「フードキャピタリズム」が食環境を破壊しているとしている。
当時(1980年前後の20年)はまだ「家庭」と言うシェルターが残っていたのである。そして、「政治的に正しい医学」が伝統的な信念を「老人の戯言」と切って捨てようとしていた時代である。
栄養学の著作に限らず、社会を記述する教科書は、「書かれた時代の文脈」を考えなければ意味がないのだ。
夜、娘が帰る頃に一人前作る。定食屋さんみたいである(笑)。
次に調理をするまでに少しアトカタをする。外から帰ってきた時に片付いているのは嬉しいものである。
僕の晩御飯は温かい蕎麦。昼に揚げたレンコン、芋の天ぷらと卵を乗せる。
身体の内に住むマイクロバイオームは「蓼食う虫」なのだ。
みな終わって、お茶を入れながら最後のアトカタをする。
明日の朝のための準備である。
静寂な夜がやって来るのである。
少し腹減った。
ミカンでも食いたいものである。
朝は蕎麦食った。夜も食う。僕は蕎麦好きである。
昼はサンドイッチ。
2023/03/30