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チーム「継ぎ足しおでん」:OneForAll AllForOne

かつて私達は、「家族」と言うシェルターに守られていた。食事を作ってくれる家族が共に生きていたのである。今や、ひとりひとり切り離されて孤独の内に死ぬのだ。死ぬことは苦痛ではないが、思い出を剥ぎ取られて土建屋の作っった「介護施設という絶望の死を待つ檻」に放り込まれたくはない。
死ぬことは仕方がない、しかし、血液検査を繰り返し検査値を正常にする薬をもられ、自分が元気であった過去を懐かしめば認知症と言われ「キチガイ」扱いされる。禁治産者としてずべての財産を身ぐるみ剥がされる。
子供は親に復讐する。自分の未来でもあることも知らずに。

そんな人生の終わりはまっぴらだ。


残ったお浸しなどの青菜系も入れる。すぐに溶けてしまうので味を染みさせたら食べると宜しい。

母は、70歳の終わりから料理を作れなくなっていった。最後までご飯はたけていたが、炊飯器のスイッチもどれを押して良いのか分からなくなった。
お役人様は「認知症」と呼び介護施設に入れようと躍起になる。なにせ税金を使った手数料が奴らの給料である。
医師は患者の訴えに薬をもる。よく効く薬は、直しはしない、苦しみを隠すだけである。そして、歳を取るということは病気ではない。少し不便ではあるが。
生まれた瞬間から身体は世界に適応していくのである。身体の変化に合わせた食事を取らなければ「よく効く薬」が必要になる。

「継ぎ足しおでん」もいよいよ2ヶ月目である。毎日2回火を入れながら1~2杯食べる。
底をさらい、細かく分解した食材を上げる。

先月入れた「鹿のモモ肉」が上がってきた。かなり美味い。小さい頃は安価なごちそうだった「クジラの大和煮」を思い出す。ホグホグぐして素晴らしい。

何と言っても手羽先であろう。箸でばらせるし、骨も食える。何よりも髄が溶け出している。

木綿豆腐は相当宜しい。味が染み込んでいくので僕は「美味しさのコンテナ」と読んでいる(笑)
これはすげえうまい。マユもジャンプする香りである。
骨のズイが見える。スープの内に溶け込んでいっているのであろう。

医学は単純に「分解分析」できる「生化学物質」の効用を並べ立てる。しかし、「分解分析」は見つけられるものしか見えないのだ。

表面に脂が浮かぶ。大根、栃尾の油揚げが見え隠れする。

医学という見えるものしか見えない「網」の目を抜ける物の内にこそ大事なものがある。
この鍋の「栄養価」を測ったところで、この鍋の美味しさは商品には出来ない。タンク一杯可愛そうな大腸菌に作らせて商品にして売ることも出来ない。

マユが皿をきれいにしてくれる。

本当に大事なものは目では見えない。
この一杯の鍋のためにどれだけ時間を費やしたであろう。

時短料理などというのは愚かなことである。料理とは生きるということである。そんなに死に急いでどうするのだ。

時折、ひと月前に入れた芝海老が浮かんだりする。これは驚きである。


今朝の朝食である。この鍋一つで随分食卓の風景が変わる。先日から鍋に豆を入れるようにしたいる。生のママに入れるか、にてから入れるかを研究中である。

この試みは、80歳になった時に「自分を見失わない食事」を見つけたいというプロジェクトである。

先日から豚足を別鍋で煮ている。もう少ししたら合流するであろう。
フィスラーのウオームポットは煮込みに丁度いい。鍋底に対して深さがあるのでジックリと熱をかけるに良い。豚足が味を吸いながら味を出している。

この鍋は料理というのもを考えさせてくれる。
母に食べさせたかった。
何がこの味をつくているかは分からないが、どれ一つとして抜けてはこの味にならない。
食物連鎖というのは、捕食関係を表すピラミッド(人が頂点にいる)ではない。特定の温度湿度の内に適応した生命のコロニーである。

#継ぎ足しおでん

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幸運な病のレシピ
厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。