このフォッカッチャは教科書に載っていない。しかし、僕にとっては最高に美味しいものである。教科書は人生を教えてくれない。
『食事に対する愛・生活に対しての愛おしさ』が感じられない「マニュアルやレシピ」はつまらない。理科の実験ではないのだ。
その時生きていたという言葉が、今を生きようとする『私』には必要なのだ。食事作リに迷ったとき、僕は母に言葉をかける。2016年に亡くなった母は料理がとても好きだった。家族の笑顔が好きだったのだ。
そして、分量がきっちり書かれて細かい手順の詳細な記述はそれ以外を偽物かのように思わせる。
あたかも、外国語を学び、ネイテブの文法的誤りを指摘する愚かさを感じる。そこで生きる人が正しいのだ。僕は母が次第に「TVの健康番組の警句」を信じ始めていく姿を思い出す。僕も同じであった事を後悔している。
料理は家庭で作られて、その時々で違った顔を持つ。自分にピッタリの「ヒネリ」こそが大事なのである。
先日ピザを手作りする方のnoteを見て作りたいなと思った。
昨日妻と大喧嘩して、腹立ち紛れに「閉店間際のスーパー」に行ってイースト菌と強力粉にチョリソソーセージを買ってきた。
せっかく材料を買ったので、今日は朝からフォッカッチャを作った。
心の地下室から小麦粉料理の本を取り出して作り出した。何度も作ったので力を入れる所と気を抜く所、細かいコツを思い出しながら少し「ヒネった」のだ。大事なことは、教科書には書いていない。
人生の終わりには『自分の教科書』が出来上がる。
#デロンギ
#フォッカッチャ
ボールは沢山あったほうが良い(笑)。