安全とは何か?「水俣病」を想う
学者の言うことは信用できない。経済が富を産み、その富の残り滓が学者の給料となる。
日本窒素と言う会社が戦後に農薬を作る過程で水銀を自然界に排出した。生物に影響を与える量でないから希釈されて問題はないと学者は太鼓判を押した。当時は食物連鎖の中で水銀が濃縮されるなどということは考えられていなかったのである。
それまでにはなかった、「パブリックに対しての犯罪」が生まれたのである。そして、この問題は、ますます顕著になっていっているのである。
数年前から、「命を守る行動を取ってください」と行政はアナウンスする用になった。
今や、「経済活動」は思ってもいなかった「作用」を生むのである。「政治的に正しい」手順で今までの基準に従って行われたものであっても、何がおこるかわからないのである。
もはや、行政は私達の命を守ることなど考えてもいないのである。
専門家は、今までの世界からこれからの安全を予測する。
そんな予測は当たっていても当たり前である。
問題は、最悪のハズレを引いた場合にどう救済するかである。
汚染水の放出は多くの人間にとっての利益である。しかし、問題は『「侵襲」を受けたわずかな人』の救済をどうするかがはっきりしていないのである。
ゼロリスクを求めてはいない。
ゼロリスクは不可能なのである。トリチュウムは安全だと放出を決めた連中こそが「ゼロリスク」を盲信しているのである。
世界は何が起こるかわからない。そのときに「被害者」をどう救済するのかという決心を忘れてはならない。行政の態度を見ると「仕方ないよね、予想できなかったのだから」と言っているではないか。
同じ人間として共に苦しむ決意こそが大事なのである。
この問題が私達に与える影響は正確に言えば、「まだわからない」のだ。
これから50年放出を続け、ココまでは大丈夫だからと徐々に強度が上がり世界をどう変えていくのか誰にもわからないのである。
コストを掛けて処理の道を探すのではなく、このあたりで勘弁してもらおうと言う姿が見え見えである。
問題は次の致命的な問題にどう向き合うかである。
それぞれの人間が、自分の命を守る行動を取る様になる社会を考えると殺伐とする。
パブリックの安全をいかに実現するかを考えねばならない。
そして学び続けなければならない。
科学というのは専門家が「利益」を得るためのものではない。世界をより良くするための失敗の知恵である。
僕らは、この失敗から何を学ぶのだろうか。
2023/08/30
厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。