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レタスは涙の味がする。日本の移民政策である農業実習生制度。そこにあり、見える風景

食物連鎖のレンジは長く遠い。2013年、僕は父と叔父の葬儀に向かった。八ヶ岳の麓の高原に引き取っれた叔父は父の4歳年下であった。ペンションに泊めてもらった。朝、近所の高原レタスの農場を見て回った。

実に美しい風景が広がる。しかし、この光景を美しいとは思えない人達がいる。

農業実習生というおかしな制度


朝食の際に宿の人に話を聞いた。レタスの収穫は機械が入れない。朝露に濡れた新鮮なものを都心に送るという。朝は2時とか3時に収穫を始めるという。それは大変な労働だねと言う話になって、アジアの国から人が来て狭いアパートに住みながら収穫をするという。
当然賃金は日本の人を雇うより安くなるのだろうということであった。ただの原っぱに種まいて出てきたレタスを売るのであっる。
農家の人も一生懸命に働くのであろうが、労働集約型の仕事である。

農業実習生というのは「移民」ではない。日本での定住も国籍も持たないで雇用主からもひどい扱い受ける。
まあ、一般的な「日本人」も似たようなもので在るが。
「士農工商」の下には「穢多非人」と言う階級があった。本当の差別は見えないし語られない。今ならば、「ニート・農業実習生・違法移民」である。
売れないソフト会社の経営者はニートの一変種である。

高原は素晴らしい風景である。

日本の通貨価値は高いので、本国に送金すれば良い金額になるのだと言われた。確かにそうであろうが、昔読んだ本を思い出した。

グローバリズムが大きな問題であることを知ったのは「バナナと日本人: フィリピン農園と食卓のあいだ (岩波新書) 新書 – 1982/8/20」を読んだときである。豊かな農業を持ちその土地で生きていたフィリピンの人たちが、バナナのプランテーションを推進する「その土地の目ざとい商売人(キャピタリス)」のススメに従い現金収入を求めて自律的な生活を失っていく過程である。もちろん、日本でバナナが果物の王様といわれた時代である。この本はすでに破壊されたフィリピンの人の生活を描いている。

1980年代は「地産地消」と言う言葉が発明された頃である。つまり、外国の作物が日本の市場を席巻して、日本の地域の農業を破壊し始めた頃である。
大事なことは、それを破壊したの、自分の一部であるということだ。

レタスを食べるのをやめようというわけではない。

このお話の根底には、僕らの「食事」がお店の商品を見ただけではわからないくらい遠くからやって来ている。コストを安くするためには単一商品のプランテーションと工業的な加工過程が必要なのだ。
商品化された「食事」とそれにより富を得ようとするキャピタリズムこそが問題である。そして、毎日自分で素材から食事を作ることはとても大事である。食事の価値を信じる人達と共に生きることも同じ様に重要であるのだ。

美味しそうで胸躍るが、食べてみればみな同じである。
これは豊かなのではない。ときおり食べるが、あまり好むことはない。腹が空いている時は見に行かないに限る。

僕の食事メソッドの基本は「身土不二(地産地消)」と「一物全体食」に象徴される「食物の持っている生命(立体構造を維持したタンパク・脂質)」を大事にした調理プロセスである。
政治的に正しい栄養学は『栄養素』さえ取れていればいいという愚かなドグマニズムであるから僕は嫌いだ。

今日は久しぶりにレタスバーガーを食べた。新鮮はレタスは野菜臭くてあまり美味しいとは思わなかった。お店の入り口に張ってあった時給880円でのアルバイト募集に憂鬱な気持ちになった。とは言っても、僕は雇ってもらえないだろうなあ。
問題は、私達が分断されて、切り刻まれて、どこかの誰かの富を生む社会システムの一端となっている。

食べ物さんは長い旅をしてここ(身体というコロニー)にくる。
その旅を思い忘れないことだ。


レタスを見るたびに僕は父との最後の長い旅を思い出す。

先に逝った弟を思う心持ちはいかがであったろうか。この7年後、父はあちらに逝った。

グローバリズムは食物のレンジを長くする。

レタス畑で働くアジアの人たちはそれなりに良い金額をもらうからいいではないかという言葉はよく聞く。
しかし、家族から離れて長い時間を生きねばならないのである。

昭和の初期にも東北からの出稼ぎは多くの悲劇を生んだ。しかし、餓死するよりはいいと言われる。

「食事の問題」は自分の問題として考えたほうがいい。

とてもつらい人生の終わりを迎えたいとは思わない。
ピンコロの食事を僕は探している。
そしてそれこそが「食事の価値」なのだ。


日本の移民問題

日本は単一民族国家だと言われる。僕は「民族」と言う定義があまりに「バズ」なので議論のしようがないと思っている。

しかし、はっきり分かることが「単一」と考えたほうが自分の「得」になる方々と、どう頑張ってもお金持ちになれない自分がいるということである。
民族とは「検査値」で判定できる物ではない。検査値というのはその存在の環境が生むものだからである。民族のスティグマはDNAには刻まれてはいない。糖尿病と言うスティグマで僕は長く自分を責め、未来に絶望し、メディカルキャピタリストに富を貢いできた。

食事や生活の形(=宗教と呼ばれる一連のコード)が人を違ったグループに分ける。かつては家庭が最小の単位であった。今や「スーパーやコンビニジュンクフードのフランチャイズ」と言う「商品化された食事」のサプライチェーンがそれに当たる。


この映画(新宿インシデント)はおそろしい。ジャッキーチェンがまだ「人々の側」だった最後の頃の映画である。僕は恐ろしくて2度見れなかった。1990年台の移民という利権をアンダーグラウンドな世界が奪い合っていた頃である。


映画は見ていないんだけどね。僕の中では「ディアスポリス」一等賞である。これも移民の物語である。
種が遠い土地に落ちで芽を出すように生きることことの凄さを感じる。


この記事のコメントにインスパイアされて思い出しました。yuraさんありがとう。

#新宿インシデント
#農業実習生

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幸運な病のレシピ
厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。