関係性の病:人の集団は「基本(デフォルト)イジメあり」
ヒトは集団で共通の価値を求め、集団でその価値を分配する。そして、これは哺乳類に共通に見ることが出来る「律」である。
そして、共に役割を分担しても「ずるしてやらない人間」もいるし、「何もしなくとも多くを得るもの」もいる。これはサル山でも群れで狩りをする獣でも共通に見られるものだ。
このお話の続きです
私達は深く苦しんでいる。
イジメやセクハラ、パワハラで多くの人が苦しんでいる。同時に他人を苦しめることが仕事のように思っている人間もいる。これは昔からのことである。しかし、80年前にはここまでひどくなかった(と父に聞いた頃がある)。
社会が小さく閉じていて、いじめる側もイジメられる側もともに生きていたし、お互いを家族のレベルで知り合っていいたのだ。ホンダもソニーも町の商店で、社員を人としてこお要していた時代である。
「統合失調症やうつ、自閉スペクトラム症(ASD)やADHDに学習障害=(心の病)」いずれもこれほどの大流行はしていなかった。そして、「拒食・過食・依存、リストカットに自殺=(物理的ダメージ)」が現れていく。まるで「生活習慣病」と「合併症」の関係のようだ。
そしてもう一つ共通するのは、「心の病」には「よく効く薬」が存在するが、決して「物理的ダメージ」を止めはしない。
僕はこれらの「病」を「関係性の病」と呼ぶ。
専門家(医師、カウンセラー)は患者に共通する「病因」は見つけられない。患者を見るのではなく「症状」を見ているからだ。
そして専門家は共通の病状に対して「脳の部分を薬学的に殺す」薬を処方して治ったという。確かに症状はきえるが、一生飲み続けていなければならない。もしくは関係性を乗り越えるか、自分の心が壊れるかするのでもいい。いずれにしても、医者は儲かり、患者はそれなりの悲劇に向き合う事になる。家族はそうはいかない。統合失調症の夫がホームレスになる物語は多い。現実を反映しているのだろう。
患者は多くの場合、分かっているが向き合うことが出来ないから病気であるということだ。家族であり、ブラックな企業であり、取り返しのつかない自分の過去が病因である。これこそが「関係性」と言う言葉の意味である。
その関係性がなくなれば解決することがわかりながら自分も破滅するのだ。
そこが問題である。
どうすれば苦しみから救われるのだろうか
学校ではイジメがない状態が正常であると思われている。だから、イジメをひた隠す。しかしながら、そこがもう間違えている。
一つの事件が起こったときには、その事件が起こる関係性がすでに隠されているのだ。そしてそこには、「先生、親、親たち、子どもたち」多重に関係性が重なり、利益を奪い合っているのだ。
昨今の風潮では、イジメられる側の子供を病気だとして薬を処方する。しかし、問題は解決しない。関係性は維持され続けるからである。
修復的司法と言う考え方
はじめて知ったときは、随分、驚いたものだ。とても重要な概念なのだが、1970年代から始まるとされている。おそらく、コミュニティの規模が小さい頃、国家的な司法が力を持たない時代には一般的であった解決方法がグローバリズムで崩壊する過程で、芽ふいてきたのではないかと思っている。
どちらが悪いかを白黒つけて罰を受けたら無罪放免という「応報敵司法」ではなく、コミュニティ全員がこころ安らかに存在できる道を探すというかんg苗方である。
「関係性の病」に関してはこの方向しか無いと思っている。
しかし、問題が有る。少ない価値を奪うためにイジメが存在する場合だ。
今の時代のイジメが厄介なのは、自分を守るために他人をいじめるのだ。それも関係性の中でいじめるのだ。決して裁かれるような証拠は残らない。
セックスの問題を避けては通れない。
セックスというのは摩訶不思議である。僕はマイクロバイオームが身体を操りたの個体に移住するから怒ると考えている。理性では制御できないものなのだ(と考えると納得がいく)。
教師が生徒に性欲を感じた時にどうしたらいいかと言うマニュアルは文科省にあるだろうか?
探しているがないようだ。子供が先生を操るために自分のセックスを利用することはないだろうか?
無いわけがない。人というものはそういう生き物である。
そして人はセックスを隠蔽する。
患者の社会の中の位置
「センセイ」と呼ばれる連中はこの病は起こらない。苦しめる側の特徴はよく似ている。。組織(コミュニティ)の上位の側にいる連中には起こらないのだ。医師(上の方)、教師(上の方)、教授、政治家、役人(上の方)、彼らの使いっぱしりもいる、看護師、栄養士などはこれらの権威を真理として患者を怒る。臨床医(患者に向き合いともの苦しむ)や患者、学校における生徒も苦しむ側だ。
そして従来の視点では、この事は見えてこない。つまり、コミュニティの数は数え切れないくらい多く、多重多層的に存在するのだ。
親は、家庭と言うコミュニティの中では上位である。しかし、会社で上司に怒られてばかりの社員ならばそのコミュニティでは患者側である(笑)。
家で子供に当たり散らす親が会社では毎日反省文書かせられて、公園でブランコ乗ったりする。つまり、関係性の中でこの病は発症する。
「格差の問題」との関係
私達を苦しめる「格差の問題」は格差を「自己責任位」にしてしまう。
イジメも全く同じである。イジメられる側が悪いとは言うことはなくともそう取られて当たり前の風潮である。そして、放置されて一番苦しいのはイジメられる側である。
親が、子供にあの子とは遊ぶなと言う。そうしたら、子供はそのターゲットを仲間はずれにする。
いい成績を取れという。誰かを蹴落とすにはいじめるのが一番、親は子供にあなたのためにいい成績を取れという。
いくらいい成績をとっても最終的にはいい会社には就職など出来ない。親のコネがなければ一生時給で働いて家賃を払わかければならない。
そして社会に出てからも同じことの繰り返しである。
この本は面白いです。性犯罪に関しての本です。読んでいると自分自身の問題であるとよくわかります。
文科省は役に立たない。とは言っても世間一般自身がイジメをなくしてもらいたいと思っていないのではないかと思う。