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みんな迷い子@国立能楽堂

11月16日千駄ヶ谷の国立能楽堂にて、加藤直作・演出の舞台「西遊記奇聞〜『みんな迷い子』」を拝見。

中国に数ある地方劇の一つ「川劇」に伝わる技法、瞬時に変わるお面「変面」を取り入れた独自の舞台。「西遊記」を題材に中国の伝統芸能の「変面」と日本の伝統芸能の日本舞踊、それに語りが出会ったらどんな演劇的世界ができるか、という加藤直さんの独特な切り口で、しかも能舞台での上演というとても興味深いものであった。

感想を一言で言えば
「清々しかった」
である。

プログラムの加藤さんの言葉を引用しょう。

「むかし芸能あるいは劇場的表現の大概は観客を探し訪ねる旅がついて回るのが常でした。表現する者たちが見て聞いてくれる『他者』たちと出会い面と向かうその時そこは何処であろうとたちまち『劇場』となったのです。」

直さんの紡ぐ言葉には、彼のものだとすぐ気付くモチーフがある。例えば
「門」「遊行の民」「旅」「劇場」「歌」「境界」「かもしれない」
それに加え言葉遊びの数々、「無だ=無駄」など。

「山と海猫」に関わった私からするとおなじみの言葉ばかりで、直さんの大きなテーマは一緒だということにすぐ気付く。他の加藤作品に関わった者もそれに気付けるはずだ。

プログラムの言葉には引き続き

「西遊記の物語を勝手に拝借して 能舞台に遊行の民よろしく綴るのが この『劇場』を目指す『終わりのない迷い子たちの道行』というわけです。」

ここまでくると「山と海猫」で見たテーマと同じだ。

定めた目標を達成しても、そこからまた旅が始まる。人生は旅。自分とは何者か、を探す旅。みんな迷っている。みんな迷い子。都会で日常の生活にあくせくしてるくらいなら、旅に出よう!

いろんな迷いを抱え、普段の生活に多少なりともストレスを感じている我々に対して向けられるこれらの言葉は、何か本来の自分を見つけたいという本能を目覚ましてくれるようだった。それが「清々しい」という感覚につながる。潜在的に心の奥底で思っていることに気付かされるのだ。

語り芸人・ゴクウの柳沢三千代さんはカレーパンマンの声でお馴染み。彼女の語りは千変万化、小気味いい。

日本舞踏家・花柳基さんは初の現代演劇挑戦とのことだが、全く違和感はなし!それどころか舞踏や発声などに備わる品格が客の目を釘付けにさせる。陽気に、素っ頓狂に、時に厳かに神秘的に演じた。

変面俳優の王文強(Wenqiang Wang)、難しい直さんの日本語のセリフを完璧にこなし、変面の自由自在な使い手として驚異的な存在感を示していた。

お供のハッカイ、ゴジョウも日本舞踊家の女性が演じ、さまざまな言葉遊びのあるフレーズを楽しく聞かせ、もちろん舞踊も素晴らしいものだった。

約1300年前に中国から伝わった「散楽」が、日本独自の発展を経て現在のスタイルになったとされる能楽。その「能」を構成する「舞い・仮面・謡・囃子」の4つの要素を、今回「日本舞踊・変面・語り・演奏」という独自の切り口にアレンジすることにより、直さんが四つ目の芸能とおっしゃるパーカッション奏者の見谷聡一さん、開幕からの神秘的なサウンド、舞踏の伴奏、歌との共演、そして自身も歌に加わるなど、劇と共に旅をする仲間として重要な役割を果たしていた。


これが2回公演とは勿体無い!普段の生活に疲れた人、新たな人生の発見をしたい人、自分とは何か?を探す人、何かに迷っている人、そんなあらゆる人に見てもらいたい舞台だった。

オペラは「楽譜」という進行台本があり、それに基づいて演技や踊りを創り、歌は書かれた楽譜からドラマをいかに表現するかを考える再現芸術。しかし演劇は、というより直さんの芝居は、書き手の想いが言葉となり、音となり、音楽となり、踊りとなり、、そういった発展が大きなまとまりを生み劇場の観客に大きな「何か」を指し示すことができる。これはオペラ人間には全く羨ましい「自由な」芸術だ。そんな我々から見たら「とっても難しいこと」を鮮やかに軽やかにやってのける加藤直さんの偉大さに(こんな言葉を使うと本人は嫌がるだろうが)驚嘆せざるを得ないのである。

来年「山と海猫」の再演が決まっている。今日の観劇は加藤直さんの世界観をあらためて認識できたとても良い機会だった、来年の演奏の私の演奏解釈にも変化があることと思う。

国立能楽堂@千駄ヶ谷
庭園の松
正面より能舞台を臨む


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