TAKDIR『ペギーの嘘』

放蕩者の、放蕩者と呼ぶのがあまりにも相応しい祖父がいる。その祖父の叔父(大叔父と言うのかな?)が、活弁師だったことも関係してるようだが、祖父は僕が演劇をしてることを妙に気に入ってくれている。おかげで祖父がチケットを取ってくれて、蜷川幸雄が演出した『恋のから騒ぎ』やSET版の『バイオハザード』、陣内孝則主演で舞台化された『奇人達の晩餐会』なんかを観ることが出来たんだが、その中でも印象深いのが、TAKDIRと言うインドネシアの劇団による『ペギーの嘘』と言う公演だ。劇団名の意味は分からないが、ウルトラオタクをやっているのでアルファベットの並びは一度覚えると忘れない方だ。MATやZAT、UGMやW.I.N.Rと言ったのを覚えなければならないのだから。

さて、勿論台詞なんかはインドネシア語でやりとりされたわけだけれど、要所要所でホリゾントに字幕が流れてたのと、配布された資料などと照らし合わせたら、三時間の長尺ではあったが楽しめた。ひょっとしたら大分勘違いして理解しているのかも知れないけれど……。

そんなわけで詳細は違うかも知れないけれど、粗筋を御紹介。ペギーと言うのは主人公の少年(名前は忘れた)の、母親の名前で、寝物語に主人公に、お前は本当は他所の国の王子様なんだよ、とその国から主人公を連れてきた経緯、幻想的な冒険譚を毎夜聞かせていた。この幻想的なパートを有名なインドネシアの人形劇や、バリ島の仮面みたいなのを被っての躍りで表現していて、まあオタクであるから「おお、不思議時空だ」と喜んだものです。(余談だが2013年、インドネシア初の特撮ヒーロー『ガルーダの戦士ビマ』がスタートしていたが、TAKDIRのスタッフも参加していたらしい)

で、ペギーはどうも、痴情のもつれで殺されてしまい、主人公は天涯孤独の身に。紆余曲折の末、主人公はIT技術者となり成功するのだが、時折「自分は異国の王子なんだ」と言う自意識からトラブルを起こし、母を目の前で殺されたトラウマから恋人(ペギーと同じ俳優さんが演じていたはず)とも上手くいかないのだが……。

と、後半はシリアスな流れだったが、躍りや歌に浸っている内に爽やかに終わっていった。多分コンピュータやネットの表現を、前半の幻想劇と同じく人形劇仮面劇で演じていたのが、最終的に生身の立ち回りになって、最後は主人公達を祝福するように人形や仮面が復活していくと言う流れだったから「時代が変わっても神や信仰は潰えない」「神や信仰をそのままに、新しい時代を迎え入れよう」と言うのがテーマだと思うのだけど……。間違っていたら申し訳ない。

まあ自分がやってる演劇とは規模もスタイルもあまりにも違うので、祖父から貰ったチケット=僕からしたらタダ券である。タダでえらいもん観られたなと、ホクホクだった。

ただ、観劇前からこの公演、ちょくちょくワイドショーで話題となっていて、2006年から企画され、2008年には大阪で公演予定だった筈が、細かい理由は忘れたけれど公演させるさせないで妙にもめて、結局2012年まで伸びたということだった。震災を挟んでいたとはいえ、なにがあったんだろうか?

しかも公演日程を終えた直後にインドネシアでも地震が起き、帰れる帰れないのトラブルが起き……、と、その時は既にTAKDIRの一観客であったわけだから、非常に心配した思い出がある。

あれから八年、世界中が、世界中の演劇人が公演を自由には出来ない状況にある。あの頃はまあ大きいところならではの大変さもあるんだろうな、くらいに考えていたが、一当事者となってはやるせなさも不甲斐なさも、それでもなにか、と言う熱意も、大したものではないだろうけど、確かに感じている。TAKDIRのメンバーが困難の末に僕らに伝えてくれた、(と、僕は思い込んでる)変わらない物を信じてみつつ……。



……ありもしない他国の劇団に思いを馳せて、実在あった災害や、この現状に触れるのは不謹慎かも知れません。けれど考えている内に、避けては通れないと思ったのです。

僕はいない人の人生を我が事として語り、我が事をいない人の人生として語る、と言うことを役者としても脚本書きとしても、してきました。多分それは僕だけではないでしょう。そのどちらも真剣に、空想と現実の境目を掻い潜りやって来たつもりです。技術のあるなしは別として。

これが僕で、これがアホみたいに言ってきた『B級演劇』なるもの何ではないかと思ったのです。

ご意見、お待ちしております。

(タカハシさんのリクエストにお応えしました)

あ、祖父のくだりは大体事実です。






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