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60年代研究「学生運動と物理学」

「参加型社会宣言」のオンライン読書会は、本をきっかけにして参加型社会のプロトタイプを試しに作ってみる活動です。いつからでも参加できますので、参加希望者は、下の記事の一番下のリンクからお申し込みください。

橘川さんの「社会を生きるのではなく、時代を生きるのだ」という言葉をきっかけに「時代別研究会」が立ち上がりました。

1971年生まれの私にとっては、自分が生まれ育ったころの社会がどのようなものだったのか?そこからどんな影響を受けて自分ができているのかに興味が湧き、1960年代を中心に探求しています。

第一弾として、野球少年だった私に影響を与えた出来事として、「テレビとプロ野球」についての気づきをまとめました。

第2弾の今回は、「学生運動と物理学」をテーマに、1970年代の全共闘の学生運動が、物理学を専攻し、物理教育に関わってきた私の人生に与えた影響について考察してみます。

団塊の世代と団塊ジュニア世代

戦後のベビーブームによって子どもがたくさん生まれました。その世代は団塊の世代と呼ばれ、学生時代には学生運動を起こし、その後の高度経済成長の担い手にもなりました。

私は、団塊の世代の子どもの世代です。親の世代の人数が多いため、私たちの世代も人数が多く、第二次ベビーブームと呼ばれました。人口分布のピークであり、私が通った中学校は、45人学級が9クラスありました。

私たちの世代にとって、70年代の学生運動とは、親の世代の学生時代に起こった社会現象です。

私の人生に大きな影響を与えた人が二人います。故・明峯哲夫さんと、山本義隆さんです。二人とも団塊の世代で、全共闘として学生運動に身を投じ、それをきっかけに、アカデミズムの世界から去って在野の研究者となり、予備校で授業をするようになったという共通点を持っています。

大学院を中退して、水戸の智森学舎予備校で物理を教え始めたとき、その予備校で生物を教えていたのが明峯さんでした。その予備校を立ち上げた岡安實さんも学生運動出身でした。当時の予備校には、学生運動で大学解体を叫んでアカデミズムから離れた人たちが集っていたのです。

生物の講師だった明峯さんは、「田原さん、心が自由になると、大学にいるよりもいろんなことを学べるようになるんですよ。」と私に教えてくれました。明峯さんは、まさにそれを実践している人でした。

私は、明峯さんの息子と同じ年で、まさに親子ほどの年齢差でしたが、明峯さんは、いつも対等に接してくれて、少しも威張ったところがありませんでした。私は、その在り方から影響を受けました。在野の研究者という生き方があることも、明峯さんから学びました。

明峯さんが亡くなった後、明峯さんが書いた書籍をたくさん読みました。それは、私にとっては、明峯さんからのバトンを受け取っていく儀式のようなものでした。

もう一人の山本義隆さんには、私が浪人生のときに通った駿台予備校で物理を教えてもらいました。

物理入門

友人で博識だった宮本直規君が、「山本義隆は、全共闘の議長だったんだよ」と教えてくれました。周りの講師が山本さんを尊敬している様子が、授業中の雑談からうかがえ、「そうなんだ~」と思いましたが、山本さんが授業の中で当時のことを語るのを一度も聞いたことはありませんでした。しかし、湾岸戦争でアメリカがイラクを空襲したときだけは、とても怒っていました。

物理学科志望だった私にとって、予備校のどの講義よりも、山本さんの講義が楽しみでした。高校時代はさっぱり理解できなかった物理が、霧が晴れるように理解できるようになっていくのがうれしくてたまらなかったのです。

山本さんの講義は、物理学の根底に流れている哲学から説明してくれること、さらに、微積分を使ってできるだけ厳密に論理展開してくれることが特徴でした。これによって、物理が何をやろうとしている営みなのかを掴むことができました。そのおかげで、無事に大学で物理を専門として学ぶことができるようになりました。

大学の図書館で、山本さんが学生運動について書いた本『知性の叛乱』を読みました。これを書いた山本さんが、今、どんな気持ちで物理を教えているんだろうかと想いを馳せました。

知性の叛乱

その後、物理の研究者を目指して博士課程に進み、複雑系の科学の手法を用いて、生物の自律性を解き明かそうとして研究をするようになりましたが、壁にぶつかって大学院を中退し、予備校の講師になりました。

大学院を中退した理由は、山本さんとは違いましたが、社会構造と向き合う経験をして、予備校講師になったという点では共通するものもありました。

予備校講師になるときに、岡安さんから、「田原君、『田原の物理』を確立するんだよ」と言われました。『田原の物理』とは、何をすることなんだろうか?と考えました。

授業を始める人は、自分に教えてくれた人の授業を参考にするものです。

当時の私は、山本さんの教え方から多大な影響を受けていたので、それを継承しつつも、自分らしい新しいものを作り出すことが「田原の物理」をやることだと思いました。

最初は、山本さんを真似て、微積分を使って物理を教え始めました。しかし、ついてくるのは上位層の一部だけで、中間層以下はちんぷんかんぷんという状況に陥りました。上位層の中には、高校での教え方と違うという理由で、最初の授業の後は出なくなるという生徒もいました。実績もなく、教え方も未熟な予備校講師だったので、信頼されなかったのです。

だから、生徒のことを知るところから始めようと思いました。生徒からの質問=生徒への取材、と位置付けて、とにかく質問に対して根気強く付き合いました。「田原は、質問を快く受けてくれる」という情報が生徒の中に広がり、授業の前も、授業が終わってからもエンドレスで質問の列ができるようになりました。ディズニーランドの乗り物の順番待ちのような列が、講師室から伸びるようになりました。

年間に出会う生徒は数百人でしたが、全員の名前を覚えました。「大勢の中の一人の生徒」ではなく、「名前を覚えられている個人」として扱うことで関係性が育ち、人間関係の悩みや、寮生活のことなど、本当に思っていることをいろいろ話してくれるようになりました。

数年が過ぎたころには、生徒が本当に感じていることを踏まえて、物理をどうやって教えたらいいのかが、だんだんと見えてきました。質問に答えている中で分かりやすい教え方も生み出されてきました。

偏差値が50程度の生徒が、物理の考え方を理解して、微積分を使って問題が解けるような教え方を、生徒とのやり取りを参考にして体系化したのが、田原の物理です。それを書籍化した『微積で楽しく高校物理が分かる本』は、12刷を超えるヒットになりました。これが、僕が執筆した最初の本です。

高校物理のカリキュラムを、いったん解体して、自分なりの視点で再構成して、たとえ話による直感的な理解と、微積分を使った解析的な理解を、高校生の現状を踏まえたうえでバランスさせたのが「田原の物理」です。

考え出したたとえ話は、50個を超えました。たとえ話を配信するメルマガは、まぐまぐの殿堂入りメルマガになりました。

「田原の物理」は、山本さんの物理から影響を受け、それを換骨奪胎して自分なりの教え方を確立しようと悪戦苦闘した結果として生まれたものでした。

私は、在野の研究者として、メインストリームの研究者が選ばないテーマを選ぼうと思い、「獲得形質遺伝」の研究を一人で始めました。

山本さんが、在野の科学史研究者として、『重力と磁力の発見』などの書籍を出版する活動に勇気づけられました。

私は、科学史に関係した本を2冊出していますが、山本さんの影響です。

科学史

獲得形質遺伝の研究は、進化を環境への適応の側面だけでなく、生命の創造活動の側面からも捉えようとするものです。それは、学習を社会への適応の側面だけでなく、新たな価値の創造のためのものとして捉えるという視点と繋がっており、現在の活動へと引き継がれています。

予備校講師になった後も、研究心が消えずに燃え続けたのは、故・明峯さんや、山本さんがいてくれたおかげです。

全共闘の活動は力によって潰されましたが、そこで生まれた想いは、様々な分野へと展開されました。その一つが予備校で、私は、そこで影響を受けました。

そう言えば、山本さんと、一度だけ話したことがあります。

予備校講師になって数年経ち、アカデミズムの世界に戻ることをあきらめて、この世界で生きていこうと肚をくくったときに、駿台と河合塾の採用試験を受けに行きました。

駿台で、山本さんの前で模擬授業をやりました。山本さんは、僕に二つのことを尋ねました。

「あなたは、ドットという記号をどんな理由で使っていますか?」

「あなたは、大学院で何を専攻していたんですか?それを続けるつもりはないんですか?」

それが、山本さんと直接やり取りした最初で、(おそらく最後)の機会でした。私は、駿台の試験には落ち、河合塾へ行きました。

影響とは、目には見えないものです。

影響を受けた側が、感じて、表現することで、ようやく目に見えるものになります。

60年代研究をしていて、全共闘のことを調べ、象徴的な存在だった山本義隆さんのことを思い出したら、自分は、多大な影響を彼から受けていたことを思い出しました。

山本さんが、この記事を読むことはおそらくないと思いますが、感謝の気持ちを感じていることを書き記しておきたいと思います。



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