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60年代研究「テレビとプロ野球」

橘川幸夫さんの著書「参加型社会宣言」がきっかけに、170名以上を巻き込んだオンライン対話の渦が生まれています。

あと数カ月は続きそうなので、今から加わっても十分に体験できると思います。面白そうだと直感した人は、こちらを読んで、一番下にあるリンクから申し込んでください。

橘川さんの「社会を生きるのをやめて、時代を生きることにしたんだ」という言葉が響きました。社会を生きるというのは、今の社会構造のポジションや肩書きという文脈の中で生きるということです。一方、時代を生きるというのは、時代の流れの文脈の中で生きるということだと思います。

時代を生きるって、どんな感覚なんだろう?

その感覚を味わうことで、「参加型社会宣言」に込められた想いを共有できるんじゃないか?

そんな気がして、時代別研究というものにはまっています。

いきあたりばっちり読書会は、本の感想を5分ずつ述べ合うオンライン対話会を各自が主催していくという活動と並行して、分科会が立ち上がり始めました。

私は、その中の「60年代研究会」に惹かれて、テレビの創成期のことや、プロ野球、学生運動などについて調べては、投稿しています。

日本テレビとプロ野球

テレビ放送がスタートしたのが、敗戦から8年後の1953年2月。NHKが、1日4時間ほどのテレビ放送を開始。当時のコンテンツは、取材映像を流すニュースや劇場映画をのぞき、大部分が生放送でした。

同じ年の8月に日本テレビ放送網が開局。テレビ放送が始まる1年前に販売開始された松下電器製の白黒テレビの価格は、当時の初任給の54倍。個人で買える代物ではなく、日本テレビが各地に設置した街頭テレビで、スポーツ中継(巨人戦、大相撲本場所、プロレス中継)を流し始めました。

日本テレビ放送網を立ち上げてたのは正力松太郎です。正力は、読売新聞社の経営者であり、読売巨人軍のオーナーであり、「平和のための原子力」プログラムを推し進め、原子力委員会の初代委員長に就任。

A級戦犯だった正力が、戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後に中央情報局(CIA)の非公然の工作に協力していたことを、早稲田大学教授の有馬哲夫が外交文書に基づいて明らかにしています。

世界的に共産化の波が広がっている中、日本国民が、戦争の相手であったアメリカへの対抗意識を燃やして共産化しないように、GHQが推し進めた3S政策(Screen、Sports、Sex)の実現の先頭に立ったのが正力であり、テレビ放送の結果として生まれたのが、

巨人、大鵬、卵焼き

という標語でした。

テレビは、国民の意識が反米、反共へと向かわずに、ガス抜きされていくためのプロパガンダ装置として重要な役割を担いました。その中心にいたのが正力でした。

巨人戦のテレビ放送の5年後の1958年に誕生したスターが長嶋茂雄。1962年に王貞治が本塁打王と打点王の2冠を取り、巨人戦が日本テレビの人気コンテンツになっていきます。

1971年生まれで、野球少年だった私の記憶は、1974年に引退した長嶋茂雄が背番号90で監督をやっている時代から始まります。

王貞治の世界記録のホームランボールを手に入れるために、虫網を持ったファンが後楽園球場に押しかけている映像が記憶に残っています。

1970年代に小学生だった私が、当たり前のように見ていたプロ野球のテレビ放送を、時代という視点から見直すと違う意味付けが生まれてきます。

野球少年として子ども時代を過ごし、高校では硬式野球部に入り、非常勤講師として働いていた高校では、野球部の助監督をやっていた私の人生は、テレビのプロ野球放送の影響で広がった野球文化の文脈に大きく影響されています。

3S政策は、私の人生に影響を与えています。しかし、それが、どのような影響だったのかは、私の意志とこれからの行動で決められることです。

何も考えなければ時代に流されていきます。自分を押し流している時代に自覚的になれば、そこに意志が生まれ、時代を創ることができるようになります。

意志を持った個人が集まって作るのが参加型社会。

時代を生きることと、参加型社会とが、繋がってきました。





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