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居合道歌七選〜第4首 二本目〜道を歩む者達の御伽話
身の曲尺の位を深く習ふへし 留めねど留る事ぞふしぎや
この居合道歌の教訓を3つ。
自然体の重要性
“身の曲尺の位” とは、自身の体を正しく測り、適切な立ち居振る舞いを学ぶことを指します。これは、刀を扱う技だけでなく、日常においても無理のない姿勢や動作が大切であることを教えています。無理に何かを押し通そうとせず、自然な在り方を追求することが大切です。
心と体の調和
“深く習ふへし” という言葉は、単なる技術の習得ではなく、心・技・体の調和を求めて稽古するべきことを示唆します。正しい姿勢や型を学ぶことで、内面的な安定や精神性の向上が得られ、結果として、迷いや無駄のない行動ができるようになります。
無為自然の悟り
“留めねど留る事ぞふしぎや” という言葉は、意識的に何かを止めようとしなくても、自然と調和した動きや心持ちが身につけば、結果として最適な形に落ち着くということを表しています。これは、禅の教えにも通じる考え方であり、居合道においては、過剰な力みや執着を捨て、流れるような動きを目指すべきことを意味します。
「留めねど留る」
俺は焙煎士だ。
一杯のコーヒーが持つ奥深さに魅せられ、もう何年も豆を焼き続けている。だが、まだ「うまいコーヒー」の正体を掴みきれない。どれほど火を調整し、豆を見つめても、何かが足りない気がする。
焙煎は居合に似ている。炎を刀とするならば、豆の声を聞き、最適な刃を振るうのが俺の仕事だ。だが、俺の焙煎はどこかぎこちない。無駄がある。意識しすぎて、逆に不自然になっているのかもしれない。
ある日、ふとした縁で居合道の稽古を見学することになった。師範が静かに正座し、刀を構える。ゆっくりと抜刀し、斬る。たったそれだけの動作なのに、雑念の入り込む余地がない。動きは流れるようで、止めるべきところで自然に止まる。
「身の曲尺の位を深く習ふへし——」
師範の言葉が耳に残った。
自分の体の寸法を知り、無理のない構えを取る。それが、居合の極意だという。
焙煎機の前に立った俺は、その言葉を思い出す。これまでの俺は「うまいコーヒー」を求めるあまり、火加減を操ろうとしすぎていた。豆の声ではなく、自分の理想だけを聞こうとしていたのではないか?
俺は、手の力を抜いた。豆の色、香り、わずかな変化に身を委ねる。操作しようとせず、ただ感じる。
「——留めねど留る事ぞふしぎや」
火を止めるべき瞬間が、自然とわかる気がした。時間を計るまでもなく、手が動く。焦げることも、生焼けになることもない。ただ、豆が求める形に落ち着く。
淹れたコーヒーを一口含む。
苦味と甘み、酸味が一体となり、穏やかに広がる。作ろうとしたわけじゃない。けれど、確かに「うまい」と思えた。
焙煎の道もまた、居合と同じだ。無理に何かを成そうとせず、ただ道を深く習う。
それが、俺の「うまいコーヒー」への道なのかもしれない。
俺は焙煎機の前に座ったまま、ゆっくりと息を吐いた。
この感覚を、もう少し確かめてみたい。
次の豆を手に取る。今度は少し硬めの品種で、火の入りにムラが出やすい。以前の俺なら、豆を均一に焼こうと細かく火加減を調整し、微妙な違いに神経をすり減らしていただろう。だが今は、ただ豆の声を聞く。
「深く習ふへし——」
居合の師範の言葉が、ふと脳裏をよぎる。
俺は焙煎の時間を気にするのをやめた。時計を見ず、ただ豆の色と音、香りに意識を集中させる。豆は膨らみ、小さな音を立てて弾ける。焦げることなく、未熟でもなく、ちょうどいい地点へ向かっていくのがわかる。
その瞬間、手が勝手に動いた。
火を落とし、豆を冷却槽へと移す。
焙煎したばかりの豆を手のひらで転がすと、指先に心地よい熱が伝わってくる。艶があり、ムラなく焼けた理想的な仕上がりだ。
——本当に、ふしぎだ。
俺は何も操作していない。ただ、豆の「あるべき形」に寄り添っただけだ。
◆
翌朝、昨日焼いた豆を挽き、コーヒーを淹れた。ゆっくりと湯を注ぐと、粉がふわりと膨らみ、芳醇な香りが立ち昇る。
カップを口元に運び、一口。
苦味と甘み、そしてわずかな酸味が、綺麗な弧を描くように舌の上を流れていく。どこか一つの味が突出することもなく、ただ調和している。
「……これだ」
思わずつぶやいた。
昨日までは「うまいコーヒー」を追い求め、どこかで「理想の味」を作ろうとしていた。でも本当は、コーヒーは作るものじゃない。豆が持つものを引き出し、留めるべきところに自然と落ち着かせる。それだけで、コーヒーは自ずと「うまい」ものになる。
それはまるで、居合の動作そのものだった。
刀を振るうとき、無駄な力が入れば軌道が狂う。意識しすぎれば、かえって流れを失う。だが、心技体が調和すれば、斬ろうとせずとも刀は正しく斬れる。
コーヒーも同じだ。
俺は「うまいコーヒー」を作るのではなく、ただ、コーヒーにとって自然な形を見極めるだけでいい。
俺は再び焙煎機の前に立つ。
「——留めねど留る事ぞふしぎや」
俺の手は、もう迷っていなかった。