足摺七不思議を広げる地獄関連のまとめ
四国地方の古地理に関する調査報告書
「川と人との歴史物語」
国土交通省四国地方整備局
国土交通省国土地理院
より引用
四万十川は元々、渡川と呼ばれていました。河川法制定時(昭和39 年当時)に登録された正式名称は、渡川水系渡川でした。現在でも河川法上の呼び名は渡川水系四万十川となっています。元々、下流の中村市周辺では渡川と呼んでおり四万十川は通称でした。
しかし、四万十川ブームにより地元から名称変更の希望が起こり、平成6 年7 月25 日に変更がなされました。
「四万十川」という名前の由来は、上流部の梼原町の支川「四万川」と十和村の支川「十川」の河川名を併せたというもの、アイヌ語の「シ・マムタ」(はなはだ・美しい)から、あるいは同じくアイヌ語の「シマト」(砂礫の多い所)からきたもの等、いろいろと言われています。
一方、渡川とは、昭和初期に刊行された「大言海(だいげんかい)」という国語辞書によれば、三途の川の意味であると解釈されています。
また、古今集には、
小野篁(おののたかむら)(802年(延暦21 年)~852年(仁寿2 年))
が詠んだ
「(いもうとの身まかりにける時よみける)泣く涙雨と降らなむ渡り川水まさりなばかへりくるがに」
が収められています。
この歌の解釈は、
「私の涙が雨となって降ってくれたならば、三途の川が増水して渡れず、妹はもう一度こっちの世界に帰ってこれるのに」
という意味のもので、やはり渡川とは三途の川を指していたと言えます。
また、土佐では人を罰する際に、川より西の具同や中筋の方面に追放する「渡川限り」という罪名があり、明治初頭まで続けられたと言われています。このほか、中村は古くから交通要衝であって往来も多く、川は渡船によって交通が行われていたので、渡川と言われたという説もあります。
ウィキペディア引用
三途川(さんずのかわ、さんずがわ)は、此岸(現世)と彼岸(あの世)を分ける境目にあるとされる川。
ただし、彼岸への渡川・渡航はオリエント起源の神話宗教[1]からギリシア神話[2]にまで広く見られるものであり、三途川の伝承には民間信仰が多分に混じっている。
足摺岬は、「あの世」とされる。
あの世に存在する。足摺七不思議の「地獄の穴」
三途の川は、三本の流れ、此岸に近い手前が地獄道へ行き着く川。その先が畜生道へ流れ込む川。彼岸に近い流れが餓鬼道へに至る川。
業の重い者は、手前の流れに流され、重い地獄道。少し重い者は中流、畜生道。業の軽いの者は餓鬼道へ、業の重さによって流される地獄が変わる。
三途の川には、奪衣婆がいる。
多くの地獄絵図に登場する奪衣婆は、胸元をはだけた容貌魁偉な老婆として描かれている[1]。例えば『熊野観心十界曼荼羅』に登場する奪衣婆は獄卒の鬼よりも大きい。日本の仏教では、人が死んだ後に最初に出会う冥界の官吏が奪衣婆とされている[1]。
奪衣婆は盗業を戒めるために盗人の両手の指を折り、亡者の衣服を剥ぎ取る。剥ぎ取った衣類は懸衣翁という老爺の鬼によって川の畔に立つ衣領樹という大樹に掛けられる。
衣領樹に掛けた「亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ」、衣が掛けられた衣領樹の枝のしなりぐあいで罪の重さがはかられ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる。
奪衣婆を優婆尊(うばそん)とも呼ぶ。
行き先を決める力を持つが故に閻魔大王の妻と云われ、
亡者の業を剥ぎ取るが故に阿弥陀如来の妻と云われる「白衣観音の変化身」とも云われる。
ちなみに、役行者は、優婆夷と呼ばれています。
優婆夷・優婆塞(読み)うばいうばそく
優婆塞はサンスクリット語ウパーサカupāsakaの音写で、在家の男性仏教信者、優婆夷はウパーシカーupāsikāの音写で、在家の女性仏教信者をいう。原義は「そば近く仕える者」で、在家信者は出家者に近づいて法話を聞き、出家者の必要な生活物資を布施して仕えるのでこのようにいう。在家信者となるには三宝(さんぼう)に帰依(きえ)し五戒を保つことが必要で、また六斎日(ろくさいにち)(毎月の8、14、15、23、29、30の各日)には八斎戒(はっさいかい)を守り、とくに身を慎むことが勧められる。優婆塞・優婆夷は、仏教教団を構成する四衆(ししゅ)、七衆(しちしゅ)のなかに数えられる。
足摺七不思議では、阿弥陀如来の妻と云われる「白衣観音の変化身」の説をとり、地獄の穴にチリンチリン落ちていくお賽銭の至るところは、観音様がいらっしゃる金剛福寺のもとです。
救いとして、観音様がいらっしゃる。
「地獄の穴」のとなりに「極楽浄土」。「南無阿弥陀佛」の石がある。