足摺七不思議~さざれ石の聖印(六字名号の石)~
古代京都の神社と云われる上賀茂神社と下鴨神社。
そこに「さざれ石」がお祀りされている。
カミさまは、常にそこにいる訳でないので、とどまるときには、
依代に降臨する。
依代に岩、森、界がある。
磐座(いわくら)、神籬(ひもろぎ)、神奈備(かんなび)
磐座(いわくら)とは、祭祀の時に神霊が降臨するとされる岩石。
神籬(ひもろぎ)とは、神霊が降臨する常緑樹の森
神奈備(かんなび)とは、神霊が降臨する磐座神籬を含めた領域。
依代を通じて、降臨したカミを拝む。
石を拝むと石の信仰となり。
樹を拝むと樹の信仰と云われ。
山々を拝むと山岳信仰となる。
などなど。
「さざれ石」の名称は、
平安時代初期の延喜5年(905年)
『古今和歌集』の巻7に「賀歌」の筆頭歌として納められています。
賀歌。つまりお祝いの席での、めでたい歌として、広く貴族から庶民の間にまで普及していた歌です。
『古今和歌集』には有名なカナ序文があります。
これは紀貫之(きのつらゆき)が書いたものです。
そして『古今和歌集』巻7「賀歌」の筆頭に、「題しらず、読人しらず」
として、
わが君は 千代に八千代に
さざれ石の巌となりて苔のむすまで
と歌が掲載されています。
歌いだしが「わが君は」であったり、「君が代は」であったり、宴会や結婚式やお祭りなんかで、新郎や友人や祝う相手に合わせて変えながら詠われてきた歌なので、「読人しらず」の歌である。
「さざれ石の巌と」なることは、それこそ何千年、何万年という、途方もなく長い「刻」を感じます。
人は、生まれ変わるものと信じられてきました。
肉体は老い、死を迎えても、魂は巡り、この世に現れる。
つまり、「さざれ石の巌となりて」は、「生まれ変わって何度でも」という意味としてもとらえることができます。
さざれ石は、小さな小石が結束して大きな岩石となっている。
ひとつひとつは小さな小石でも、大きな力でみんなで団結したら、
それは大きな「巌」となる。
さざれ石は、「きみ=男女」の結束、そして生まれて来る子供達や新たに親戚となる者たちなど、そのすべての人々が、大きな力のもとで固く固く団結しあい、協力しあうことの象徴。
「君が代」は、「苔のむすまで」と締めています。
苔は、冷えきったり乾燥しているところには生えません。
濡れていて、水はけの良いところに生育します。
つまり、濡れたものと、固いものがしっかりと結びついたところに苔は生えます。
すなわち「苔」は、「きみ=男女」が、互いにしっかりと結びつき、一緒になって汗を流し、涙を流し、互いにしっかりと協力しあい、長い年月をかけて生育する。それは、男女のいつくしみと協力を意味します。
上賀茂神社、下鴨神社にて
さざれ石は、年とともに成長し岩となると信じられている神霊の宿る石と云われる。永遠の生命力と不思議を現している。とされる。
神奈備の足摺岬。
足摺七不思議~六字名号の石~
南無阿弥陀佛の聖印を刻む「さざれ石」
お大師様が刻む、「阿弥陀如来の依代」
磐座である「さざれ石」
極楽浄土を象徴する「さざれ石の巌」
苔むす「六字名号の巌」