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足摺七不思議〜動揺の石 二巡目〜お四国参りお遍路さんの紙芝居
動揺の石(ゆるぎの石)
弘法大師当山開山の砌、動揺の石を発見さる。この岩のゆるぎの程度により心の善悪を試す岩と云ふ。
足摺七不思議の「動揺の石(ゆるぎの石)」から得られる教訓。
心の揺れは己の内にある
「動揺の石」は、揺らぐことで心の善悪を試すと伝えられています。これは、環境や外部の出来事が心を乱しているように見えても、実際には自身の内面に原因があることを示唆しています。不安や迷いがあるときこそ、自分自身の心と向き合うべきという教訓です。
善悪は絶対ではなく、心の持ちようで変わる
石がどの程度揺れるかで善悪が試されるという言い伝えは、「善悪の基準は固定されたものではなく、自分の心の持ちようによって変化する」という示唆でもあります。仏教的な視点からも、善悪は絶対的なものではなく、心の状態や行動によって変わるという考え方に通じます。
動揺すること自体が悪ではない
「動揺の石」の存在は、心が揺らぐことを否定するものではなく、それによって自分を見つめ直す機会を与えてくれるものとも解釈できます。人は生きていく中で迷いや不安を感じることがありますが、それ自体が悪いのではなく、その動揺とどう向き合うかが重要である、という教訓を読み取ることができます。
このように、「動揺の石」は人間の内面の揺らぎを象徴し、それとどう向き合うかを示す遺跡であると考えられます。
ゆるぎ石の揺れ
足摺岬の風が潮の匂いを運んでくる。私は細い山道を歩き、目の前の大きな石を見上げた。
「ゆるぎ石」。
伝承によれば、この石は善人が押すと揺れ、悪人が押しても微動だにしないという。
「どうして?」
私はつぶやいた。普通なら逆じゃないか。善人こそ揺るがず、悪人こそ不安定なはずなのに。
――でも、だからこそ、試してみたくなった。
私は訪問介護の仕事をしている。十年以上になる。利用者の家を訪れ、食事を作り、掃除をし、風呂に入れる。認知症の方の相手をし、時には深夜の呼び出しにも応じる。
この仕事は、相手の人生に寄り添う仕事だ。だけど、私は最近、それができているのか自信がない。
昨日のことが頭をよぎる。
担当のご婦人が、ふと呟いた。
「この頃ね、思うのよ。どうして生きているのかしらって」
私は何と答えるべきか迷った。励ますべきか、受け入れるべきか。でも、出た言葉は――
「……そうですね、難しいですね」
私は何もできていない。利用者の不安に向き合えているのか、自分の仕事に誇りを持てているのか、それすらわからなくなっている。
私の心は、揺れている。
そっと、ゆるぎ石に手を添えた。
深呼吸して、ゆっくり押す。
すると――
ぐらり。
確かに、大きな石がわずかに揺れた。
私は思わず息をのむ。
なぜ? 私の力で揺れるはずがないのに。
でも、すぐに気づいた。この石が揺れたのは、私が迷っているからだ。
本当に相手に寄り添おうとする人間は、迷い続ける。正しい答えがあるとは限らない。それでも、考え続ける人だからこそ、この石は揺れるのだ。
揺れることは、悪いことじゃない。
私は静かに手を離した。
大きな石は、すぐに静止する。でも、私の心は、もう少し揺れ続けてもいいのかもしれない。
海風が吹く。私はその風を浴びながら、少しだけ微笑んだ。
それから数日が経った。
いつも通り、私は利用者のお宅を回る。玄関で靴を脱ぎ、キッチンに立ち、簡単な昼食を作る。ご飯を茶碗によそい、味噌汁を注ぐ。そのひとつひとつの動作が、私にとっての日常だ。
けれど、あの日から、どこか景色が違って見える。
次に訪れたのは、杖をついて歩く九十歳の男性のお宅だった。かつては大工をしていたその方は、家中の棚や家具を自ら作り上げたという。
「この棚、頑丈でしょう?」と笑う姿を見て、私は思わず微笑んだ。
でも、その笑顔の裏に隠された孤独も、私は知っている。
「最近、息子が来なくてねぇ」
何度も聞かされる愚痴。そのたびに、私は頷く。
以前は、その繰り返しに疲れていた。どうして同じ話ばかりするのかと苛立つこともあった。
けれど、ゆるぎ石のことを思い出す。
善人が押すと揺れる石――それは、迷い、悩み、そして真剣に向き合う者の象徴だ。
彼の愚痴も、繰り返される言葉も、その裏には深い孤独と愛情の欠片がある。私はそれに気づき、ただ黙って耳を傾ける。
帰り際、彼は小さな手紙を手渡してくれた。
「これ、息子に渡してくれないかね?」
その手紙には、震える字で「元気ですか」とだけ書かれていた。
私は涙をこらえ、しっかりと手紙を握りしめた。
足摺岬のゆるぎ石は、私に教えてくれた。揺れることは、弱さではなく、真剣さの証だと。迷うからこそ、人と深く関わろうとするのだと。
その日の帰り道、私は空を見上げた。
大きな雲が流れ、陽が差し込む。その光は、私の心の中の揺れをそっと包み込むように感じられた。
揺れることを恐れずに、迷うことを受け入れる。
そして、その揺れの中で、誰かと共に在ること。それが、私の仕事の本質なのかもしれない。
再び足摺岬を訪れたとき、私はもう一度ゆるぎ石に手を添えた。
心を静めて、そっと押す。
ぐらり。
今度は、その揺れを、優しさとして受け止められた気がした。